第一資料に基づいて、アメリカ軍による高松空襲を独自の研究でレポートします。
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1945年7月4日の高松の天候
高松空襲時の高松の天候は晴れである。
晴れの天候については、空襲前の石油の記事に出てくる、吉田氏の証言の中に(満天の星)という記述があり、また、高松空襲の時間の所では、原田氏の(徳島がやられているそうなので東方を見ていると遥か東方がボーと赤く焼け出した)の記述がある。高松市から徳島市が見えると言う事は天候は晴れで、しかも、横山氏の記述通りのくもりのない満天の星空であったと断言できる。
また、その他の高松空襲戦災者の証言の中でも晴れであると確認ができ、晴れ以外の記述は1つも見当たらない。
高松空襲の日にちを検証
高松空襲の始まり時間でも示したが、高松空襲は7月4日に空襲が行われたとされている。しかし、7月3日だだとする説も存在している。はたして、7月4日なのか、7月3日なのか、考察していきたい。
7月3日が空襲の最初と考えている証言である。
「(・帰来富士子 天神前)昭和20年7月3日の夜、11時すぎから5時間ほどの間に、高松市は消え失せてしまった。」
「(・日日新聞) つひに斯くあるべき日は来た3日夜中から」
帰来氏の証言では高松空襲は7月3日の11時すぎが始まりとされている。この帰来氏の証言はなんらかの資料をもとに記述されていると推測できる。
また、日日新聞では7月3日の夜中が空襲の最初とされている。夜中と言う表現はあいまいであるが、もし、0時を過ぎて日にちが変わってからの事を記述するなら、7月4日と明記するであろう。
「日本の空襲―補巻、資料編」の中でも、ページ数によって、7月3日と4日と記述されており、15〇頁には7月3日と記載されている。
たしかに、米軍が高松の町に石油をまいた時間が高松空襲の始まりならば、高松空襲は7月3日の午後11時すぎが最初と言える。
7月3日と7月4日のどちらかについては、空襲の準備段階を入れると7月3日、実際に空襲が始まったのは7月4日と考える事ができる。
現在、高松市では7月4日になると、高松空襲のイベントを行っているので、7月4日が定説として定着している。
空襲直前の高松に恐ろしい事が
空襲が行われた直前に、高松空襲を実行する為の恐ろしい準備が行われていた。
燃えやすくする為に高松空襲が始まる少し前に石油がまかれた。厳密に言えば、敵機が石油をまいた時が本当の意味での高松空襲の始まりだったのかもしれない。
次ぎに石油に関しての証言を提示してみる。
「(・中嶋貞夫 天神前)空襲に先立ち、米機が石油をまいたと言われていた」
「(・吉田富久美 中新町)警戒警報が解除ちょうどそのころ、ぽたっとつめたいものが私の首すじに落ちてきた。雨かなと思って夜空を見上げると満天の星である。
だいぶん時を経て、またぽたっとおちてくる。思わず首すじにさわると何だかねばねばする。あとできいたことだが、ねばねばするものは米軍機からまかれた油らしく、
「(・横山久恵 瓦町)7月3日の夜11時すぎであった。いちど発令された空襲警報が何事もなく解除になり隣組みの人たちは『今夜は敵機がこなんだの、それにしても石油くさい』」
これらの証言から考察してみると、7月3日の11時すぎに米軍が高松の町に石油をまいた事が分かる。
そして、空襲警報が発令されていたと言う事は7月3日の夜11時ぐらいの時間帯に敵機が高松上空を飛んでいたか、なにかの危険があったと言う事が推測される。
考察すると、7月3日の夜11時に解除された空襲警報は高松の町に石油をまいた敵機にたいする警戒であったと言う事が言える。
(高松空襲写真集 焼夷弾の一部)
爆弾の種類について、高松空襲
次ぎに爆弾の種類だがほとんどが焼夷弾で少数ながら通常の爆弾も含まれていた。以下が爆弾についての証言である。
「(・佐々木恒夫 今新町)今まで逃げる間焼夷弾ばかりで、直撃さえ受けなければなんとか逃げられると思っていた時、私の逃げる前方の西のほうで、爆弾が落下したのだ。」
「(・熊井輝義 香西町)ただ不運だったのは、焼夷弾の火にまかれたのではなく、近くに落ちた大型爆弾の破片が脇腹をえぐったというやつだ。」
「(・能租政)1銃撃や焼夷弾には耐えても、爆弾には耐えられる筈がない。」
考察すると、大量の焼夷弾に少量の爆弾がまぜっている事は高松市民に大きな恐怖を与えたようである。
すなわち、爆弾は直撃しなくても近くに落ちるだけで、命が危険にさらされ、防ぐ手段がない。
また、能租氏は最初コンクリートの建物に避難していたが、爆弾の事を考えてコンクリートの建物から避難している。これは、空襲の時、コンクリートの建物に避難していれば、焼夷弾ならなんとか防ぐ事はできても、爆弾が落ちれば、防ぐ手段がない事を意味している。
そして、米軍資料を見てみる。
・E46 500ポンド焼夷収束弾
・AN―N64 500ポンド通常爆弾
以上2つが記載されている。
(高松空襲写真集)
B29爆撃機の出撃数‐高松空襲‐
高松空襲を行った敵機の数だが、米軍資料では出撃機数(128機)で実際に爆撃を行った機数は(116機)である。
これは、高松市市民文化センター平和記念室が提示する数とまったく同じである。しかし、高松空襲被災者の証言とは少し敵機の数に誤差がでてくる。証言を提示すると次ぎのようになる。
「(・岩瀬清幸 藤塚町)高松を襲ったB29は何と90機であった。」
「(・川田秀幸 栗林町)「高松市史年表」(昭和35年2月15日、高松市刊510貢)によると、(中略)B29爆撃機延べ90機
「(・中嶋貞夫 天神前)述べ約90機のB29によって空襲された。
以上のように高松空襲被災者の証言は約90機のB29と言う事でほぼ一致している。
だが、高松空襲体験者といえども、実際に自分の目で高松空襲に敵機が何機現れたのかを確認したとは考えにくい。空襲後になんらかの資料をもとに、約90機という数字をはじき出している事は確実である。事実、川田氏の証言は「高松市史年表」を参考にして証言している。
90機と116機という、26機の誤差は非常に大きいと考える事ができる。なぜ26機もの誤差がでるのか疑問となるが、米軍資料作戦任務の概要の中にその答えとなるものを見る事ができる。
86機のB29が目視により、30機がレーダにより爆撃
すなわち、目視で爆撃すると言う事は超低空飛行での爆撃である。これは、高松空襲の特徴の1つでもある超低空飛行のB29による爆撃の情報と一致している。
「(・諏訪美智子 内町)見上げると今にも屋根に接触するかと思うほど低く飛んでいた。」
「(・佐々木恒夫 今新町)だいぶ低空でB29が1機ずつ西宝山から現れて市内を飛び交っていた。」
低空の飛行で爆撃を行ったのが86機と言う事は、高松空襲を行った敵機の数約90とほぼ同じである。86なら4捨5入すると90なので、86を約90と誇張しているとしても問題はない。
そして、レーダによる爆撃と言う事は高度の高い所からの爆撃と言う事が考えられる。考察してみると「高松市史年表」や高松空襲被災者の証言はこのレーダによる高度の高い所からの30機の爆撃の存在を見落としている可能性が推測される。
見落とされた原因としては超低空の爆撃の恐怖やインパクトの強さや焼夷弾攻撃による火炎の煙、また、空襲による混乱などが原因として考える事ができる。
高松空襲戦災者の証言の中で低空の空爆と敵機90機と言う情報は全て一致しており、誰1人として、高度のレーダーによる爆撃や敵機116機の情報を提示している人は存在していない。
これらの事を考察してみると、90機という情報が間違いだとは断定できない。ただ、実際に高度からの3〇機のレーダによる爆撃が本当に行われていたのかどうかを確かめる事は完全には不可能である。
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