第一資料に基づいて、アメリカ軍による高松空襲を独自の研究でレポートします。
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ただいまコメントを受けつけておりません。
新聞記事から見た高松の復興
高松空襲後の新聞で町の復興にかんする記事をまとめてみた。保存状態の関係で見出しの文字以外を解読する事は難しいという情況ではある。しかし、見出しと消えていない文字のみを拾い上げる事によってある程度の内容は分かってくる。
「(・日々新聞12月20日号)飛行機が住宅に高松復興用の組立式―終戦後豊富な手持資材を高松市の戦災復興住宅用に」
「(・日々新聞12月4日号)麦畑になる飛行場―終戦で再び農地にもどされる軍飛行場、練兵場、軍用道路などを」
「(・日々新聞12月28日号)なんとかならぬか住宅復興を阻む戦災土地物件令」
「(・日々新聞12月号)再起の道はここから時には慰問もある戦災者収容所」
以上の事柄で分かる事は、林町にあった軍の飛行場が戦後取り壊されて、農地として使われたということである。また、軍用機に使われていた部品が復興のための住宅の部品に再利用された事である。すなわち、終戦により必要でなくなった軍関係の物が高松復興のために使われたと言う事である。
そして、戦災によって、家を失い住む場所がなくなった人達は、高松市が用意した収容所で生活をしていたことが分かる。また、戦災者が住む家に関する事は問題もあったようだ。その1つの例が戦災土地物件令である。これは、借家が戦災で焼けた場合、住居人がまた空襲前のように同じ場所で住む場合、8月11日から2ヶ月以内に、地主に伝えておかないといけない。また、2ヶ月を過ぎると契約は解除された事になる法律である。
サイトを維持、充実させる為にご協力をお願いします。
記事を購読お願いします。
記事を読まれた方はクリック
サイトを運営する活力になります。