第一資料に基づいて、アメリカ軍による高松空襲を独自の研究でレポートします。
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(現在の高松市)
第4章高松市の復興について
第1節終戦後の都市計画と現在の高松市
ここでは、市長と助役が考えた都市計画について考察して、現在の高松市が高松空襲後の都市計画に基づいて復興しているかを考察していく。また、新聞から復興の様子を考察してみる。
以下に記述しているのが、高松市の復興に関する助役と市長が考えた都市計画である。
・大西林次(助役)南亀井町 市長は今後吾の高松市の生きる道は思い切った立派な都市計画を樹つるに在るとして、私と協議の上、その結論として、市内の路面電車は絶対止めて、東西南北に真直なる道巾を布き、商店街、住宅街、学園、ならびに工場地帯と大別し、幹線は50メートル以上の道巾とすることなであった。
大西氏は市の助役であり、市長と共に高松市の復興について協議したようである。この中にでてくる事柄は現在の高松市の風景そのものである。
現在の高松市の中心地の様子は国道11号とよばれる大きな道路を中心として道路が碁盤の目のようになっている。そして、大きな商店街と区画整理された町並みである。幹線50メートル以上の道幅と言うのが現在の国道11号線をさしている。
大きな商店街を中心に碁盤の目のように道路が敷かれた町が現在の高松市の姿である。このように、大西氏と市長が考えた復興計画がそのままの形で実行されて、成功している事がわかる。
高松空襲 第三節のまとめ
これまでの事柄を踏まえて高松空襲についてまとめてみる。
・高松空襲の始まりの時間は7月4日の午前1時過ぎから2時の間である。石油をまいた時間を入れれば、7月3日の午後11過ぎである。
・高松空襲での最初の空爆は紫雲山のふもと付近である。
・B29の侵入は高松市の中心地の西側からである。
・B29は最初に高松市の中心地の回りから空爆している。
・B29はマリアナ基地から出発している。
・高松空襲が終わった時間は7月4日の午前5時ぐらいである。
・高松空襲を行った敵機(B29)の数は116機である。
・空爆には焼夷弾が主で、爆弾も併用している。
・米軍は空襲に先立ち石油をまいている。
・天候は晴れである。
・風は西風、空襲中、海岸線は強い北風。
・死者は不明者を入れて、1359人である。
・防空壕は病人、幼児が焼夷弾空襲の時に利用するものとされていた。
・防空壕はあまり役割をはたせなかった。
・防空壕に逃げた事が死因の原因となるケースが多い。
・高松市に戦闘機は配備されていたが戦闘機での迎撃はなし。
・高松の反撃は高射砲での迎撃のみ、B29に迎撃での被害なし。
・空襲の時、あらゆる方角に避難しているが、西に避難する人が多かった。
以上の様に高松空襲の具体的な内容が戦災者の証言や様々な資料によって解明されてきた。
空襲に対する防衛について
高松空襲での日本軍の防衛状態を考察してみる。
「(・米軍資料)―敵機の迎撃皆無だが、目標地域でバカ1機が見られた。(本土空襲の場合の日本軍のバカとは何を意味するのか不明である。)中口快砲と自動火器による対空砲火は貧弱ないし中程度、第1目標で重砲のものと思われる2連射が高松の南の飛行場からあったと報告された。損失B29のうち、1機は離陸直後に不時着水、1機は滑走路からはずれた。」
「(・倉知千蔵 宮脇町)半ば完成した飛行場には、戦闘機も並ぶようになった。(中略)期待している戦闘機は1機も来ない。」
・「(喜田清 亀井町)当時のラジオによる大本営発表の口調であった。―敵機○○市を空襲せるも、いたづらに盲爆、我が軍は敵に多大な損害を与え、我が方の被害、極めて軽徴なり―だが現実には頭上の敵機に対する我軍の攻撃はなに1つ見られなかった。」
「(・熊井輝義 香西町)高射砲らしい火戦が上空に向かって伸びたが、私たちの願いを断ち切るようにそれは途中から薄く孤を画いて消えてしまった。」
以上の事柄を考察してみると、高松では戦闘機が配備されていたが、高松空襲時に敵機を迎撃する事はなかった。
空中戦は行われていない事が分かる。
証言から高松市民は、高松に配備されていた戦闘機に迎撃を期待していたことも分かる。
高松空襲時の高松市の反撃は高射砲によって行われていた事が分かる。しかし、米軍に被害を与えるほどの攻撃はできていない。
考察すると、高松の防衛体制は非常に弱いものである。
高松空襲時の防衛情況は米軍資料と高松空襲戦災者の証言と一致しているために確実な情報と言える。
(高松空襲写真集)
死者数、高松空襲での被害
高松空襲の死者についてである。死者の数については、資料によってだいぶ数がばらばらである。
死者数についての研究は「高松の空襲―資料、手記編」や「高松空襲戦災誌」、「日本の空襲―7」などで詳しく研究がなされている。先行研究であまりにも詳しく研究がなされているために、新しい発見は難しい分野ではある。
しかし、今回の研究テーマに選んだ理由などから、高松空襲の死亡の数は重要な事柄なので、記述しないわけにはいかない。
そして、「高松空襲戦災誌」の中では(不明者も合わせて、昭和57年の現在、高松空襲戦災者は1359人にのぼった。)と記載されている。
「高松空襲写真集」でも、まったく同じ1359人と記載されている。高松空襲戦災誌の死亡者数が1番、正確な数字に近いと判断した理由の1つは「高松の空襲―資料、手記編」をもとにしている所である。この本は高松空襲の死者名簿がメインであり、また、製作者の高松空襲を記録する会が死者名簿を作るために、遺族を尋ねて6~7年もの長い月日をかけて製作されたものであるからだ。
そして、高松空襲戦災誌では、新たに、テレビなどのメディアの力を使って市民に呼びかけ、新たな情報を加えて、死者数を提示している。すなわち、消防や警察、医師などの報告書をまとめだけのものではなくて、実際に様々な視点から、時間と労力をかけて、研究された数字である。
よって、現時点では高松空襲の死者の数は1359人、これがもっとも事実に近い数値だと言える。
1945年7月4日の高松の風
高松空襲時の風について考察してみる。
「(・桂美智 丸亀町)私は空襲の時は風上に逃げるのがよい、ということを何かの本で読んだのを、とっさに思い出したので、父に西の方に逃げようと叫んだ。」
「(・藤野寅市 天神前)(勤務地 寿町)海岸線への爆撃も実に鮮烈を極めたが、猛火のために特有の旋風が起り、海からの風(北風)で爆弾が南方に押し流され、」
桂氏の証言では風上である西に逃げたと記述している。よって、西風が吹いていた事が分かる。また、この桂氏の証言は空襲が始まってすぐの時間帯での話である。そして、高松空襲では西に避難した人が圧倒的に多い事も西風が吹いていたという事の証明になる。なぜなら、風上に逃げるというのが空襲時の鉄則であったからで、西に逃げる人が多いと言う事は空襲時の鉄則から考えると、西から風が吹いていた。すなわち、西風が吹いていたと言う事である。
次ぎに藤野氏の証言は空襲中の風についての記述である。戦災場所が寿町であるなら海岸に近い場所である。科学的に考察しても、焼夷弾によって熱せられた空気は膨張して軽くなり上昇する。そして、北には瀬戸内海があるので空気が流れこんできて北風になる事は断言できる。
高松空襲時に高松では、海沿は北風が吹き、それ以外の場所では西風が吹いていた事が分かる。
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