第一資料に基づいて、アメリカ軍による高松空襲を独自の研究でレポートします。
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予想された高松空襲、高松市民の空襲に対する危機感
高松空襲がある程度予想できる要因として、近くで同じような規模、立場の岡山市が空襲にあったと言う事が考えられる。岡山が空襲された事は高松市民にとって脅威となる。
・「(大西林次 亀井町) 岡山市がやられた晩など、対岸の宇野かと思うほど、近くに見え、天を焦がす赤い煙、悲惨な情景を見てからは、今日か明日かと1層の緊
張の度を加えたものである」
・「(倉知千蔵 宮脇町) 岡山が爆撃されるのが見えた。米国に対する怒りがこみ上げて来る。と同時に高松が爆撃される事は先づ間違いないと感じた。」
・「(熊井輝義 香西町) 岡山に空襲があって私たちも病院の庭から北の空が紅く映るのを眺めていた。」
以上の事柄を考察すると、岡山の空襲が実際に高松から見えたと言う事が分かる。岡山が空襲される様子が見える事は、高松市民にとって脅威となり、また、近い時期に高松も空襲されるであろうと感じる事になる。
その他、「高松市史年表」の中では(7月1日 火災保険料倍額になる。千円にたいし5円50銭から、11円となった。)と記載されている。火災保険料が倍額にも増えたと言う事は、火災の危険が非常に高くなったからだと考える事ができる。すなわち、高松に空襲による火災の危険性が高まっているという時代背景が火災保険料倍額という記述から読み取る事ができる。
(高松空襲写真集より引用)
第2章 高松市民の空襲に対する危機感と他地域
戦時中の日本とは? 第2章のこれからの解説
第1節 予想された高松空襲
第2次世界大戦時、日本は戦争を遂行するために、国民を戦争にかりだすための政策がなされていた。
学校では教師の代わりに軍人が教壇に立つようになり、学校が軍隊化され、町では隣組の制度が中心となって、空襲時の火消しの練習がおこなわれていた。
また、本土決戦を想定して、東京が占領されても、各地方がそれぞれに反撃できるような体制作りもなされていた。
高松でも、本土決戦に備えた政策が施行され、比較的軍国主義教育が忠実に守られた都市であったようだ。
軍国主義教育を忠実に守っていたから悲劇が大きくなったのではと思われる。
この章ではそのあたりの事を検証して、第1章の答えとなる、なぜ高松市は人的被害が大きいのかを解き明かしていく。
次ぎに高松の空襲はある程度予想できた事を証明し、なぜ疎開などの適切な処置ができなかったのかを検証してみたい。
第2節
松山、呉、下関、青森、の空襲を考察して、地域的に空襲に対する対策の違いがある事を検証していく。
大戦末期の日本人達は、空襲に備えて、どの様な生活を送っていたのか、高松という町を中心に考察して、他地域と比べることにより、そこから、大戦末期の日本の様子が見えてくる。
はじめてのブログです。本土空襲について詳しく研究した内容をわかりやすく伝えます。学生社会人必見
私自身、現在、高校で歴史の教員をしています。大学は法政大学の文学部史学科を卒業しており、卒論のテーマが太平洋戦争と高松空襲でした。
大東亜戦争末期、米軍による本土空襲が行われました。この空襲は非戦闘民をターゲットにした卑劣な国際法に違反した行為である。
卒論のテーマとしては、誰も研究していない分野が好ましく、地方のいち都市で行われた高松空襲を中心に研究して、そこから、本土空襲全体を検証していく壮大な卒論テーマであった。
その後、自分自身で研究し続けてきた事を踏まえて、誰が読んでも分かりやすく本土空襲のことを紹介していきたいと考えている。
先の大戦を知り、そこから、今後の日本を考えていく重要な資料にもなると思います。
歴史語句
大東亜戦争・1941年12月8日~1945年のポツダム宣言受諾までの日本とアメリカを中心とする連合国軍の戦い。東、東南アジア一帯を欧米列強の支配から開放するための戦いと位置づける。戦中は大東亜戦争が一般的な名称であった。
太平洋戦争・1941年12月8日~1945年のポツダム宣言受諾までの日本とアメリカを中心とする連合国軍の戦い。戦後、アメリカ側からの戦後教育で定着した語句。現在では太平洋戦争の名称が一般化している。
高松空襲・1945年7月4日、香川県の高松市を襲ったB29による無差別殺戮の空襲。高松の町は破壊された。
本土空襲・米軍のB29爆撃機による日本本土への空襲。主要都市のほとんどが壊滅的に破壊された。
(宣伝謀略ビラで読む、日中、太平洋戦争・引用)
全国の空襲死亡数と死亡率から分かる事(資料・空襲された147都市)
第2節
ここでは、空襲された147都市の人口、死者数、死亡率から分かる事を説明していく。以下の文章の順位に関しては、空襲された147都市の中での順位を示している。
太平洋戦争末期になると、日本全土で米軍による空襲が始まる。戦時中の混乱期のために正確な情報を手に入れるのは難しく不明な点も多く、また、確認されずに、資料として残っていない被害も数多く存在する。「日本の空襲―補巻 資料編」では147の都市が空爆されたとされている。全国の主要都市のほとんどが空爆の被害にあっている事が分かる。大都市なのだが、石川県の金沢市は空爆の被害を受けていない。金沢に関しては、なぜ米軍に空爆をされなかったのか、例えば、原子爆弾投下の候補地として、町をそのままの状態で残しておきたかったなどの様々な説がある。しかし、もし、戦争が長引いていれば、間違いなく、空爆の対象都市となっていたと予想できる。根拠としても金沢市は米軍資料の空襲すべき日本の180都市に含まれているからである。
各都市の空襲被災日を考えていくと、東京や大阪、名古屋、横浜、京都、神戸などの日本を代表する最重要な都市が比較的早い時期から空襲を受け、そして、地方の都市にその被害が広がっている事で予想がつく。米軍は日本を焼き尽くす事が目的と言う事である。
空爆の被害を受けたとされる、全国147の都市の人口を「昭和19年の総理府統計局発行の人口調査」で見てみると、1位は東京で、後は、大坂、名古屋、横浜、京都とつづく。そして、高松は40位で107202人であった。
次ぎに「日本の空襲―補巻 資料編」から147の空爆被害都市の死亡者総数の数は、1位が広島で後は、東京、長崎、大阪とつづく。高松は20位で、1313人である。
次ぎに、人口に占める死亡者の割合という事で、死亡数に人口数を割った死亡率を考えてみると、1位は広島で後は、長崎、太田とつづく。また、高松は23位で、1を全人口とすると、0.012であった。これは、100人のうち1.2人の割合で人が死んでいると言う事である。
以上の事柄を踏まえると、長崎や広島の被害の大きさが目立つ。原子爆弾による被害は人間が逃げる余地のない凄まじいものである。死亡率に関して言えば、3位以下の都市と比べて、桁が1つ違っている。まったく次元の違った爆弾の威力である。このあたりの被害の大きさが全国的に広島の原爆が平和教育の教材として使われる理由と考える事ができる。
そして、高松は全国的に見て中クラスの都市と言える。
その他、高松の空襲は死者1313人もの数が出ているので全国的に見ても大きな空襲であった事が分かる。
また、高松は人口が40位なのに、死者の数は20位で、全国的に見て高松は人口のわりに死者の数が多いと言える。
そして、死亡率は147都市の中で23位と上位に位置している。ここから、高松の空襲はなんらかの原因で死者の数が多くなったと考える事ができる。
その答えを解き明かしていくのは次回に回すことにする。
126 |
彦根 |
39699 |
13 |
0.00033 |
127 |
津島 |
21943 |
6 |
0.00027 |
128 |
有田 |
78722 |
20 |
0.00025 |
129 |
新湊(高岡) |
112818 |
25 |
0.00022 |
130 |
大津 |
65995 |
14 |
0.00021 |
131 |
浦和 |
79987 |
16 |
0.00020 |
132 |
玉野 |
45020 |
9 |
0.00020 |
133 |
高崎 |
71030 |
14 |
0.00020 |
134 |
川口 |
99450 |
17 |
0.00017 |
135 |
池田(上、下) |
6903 |
1 |
0.00014 |
136 |
大宮 |
69938 |
10 |
0.00014 |
137 |
桐生 |
77205 |
9 |
0.00012 |
138 |
鎌倉 |
29028 |
2 |
0.00007 |
139 |
横須賀 |
298132 |
17 |
0.00006 |
140 |
京都 |
964466 |
43 |
0.00004 |
141 |
新潟 |
177289 |
7 |
0.00004 |
142 |
岸和田 |
77715 |
2 |
0.00003 |
143 |
奈良 |
60215 |
1 |
0.00002 |
144 |
新居浜 |
51605 |
0 |
0.00000 |
門司(不明) |
135482 |
0.00000 |
||
久留米(不明) |
92020 |
0.00000 |
||
郡城(不明) |
59575 |
0.00000 |
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