第一資料に基づいて、アメリカ軍による高松空襲を独自の研究でレポートします。
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本土空襲‐高松空襲を中心として‐
これから記述していく記事の目次になります。参考にしてください。
最初に
参考資料と研究方針について
第1章 本土空襲の全貌を明らかにしていく
第1節 全国と中国、四国地方の空襲
第2節 全国の空襲死亡数と死亡率資料
全国の空襲死亡数と死亡率から分かること
第2章 高松市民の空襲に対する危機感と他地域
第1節 予想された高松空襲
第2節 空襲に対する他地域の動向
第3章 高松空襲中のことについて
第1節 高松空襲中の市民のとった行動
第2節 高松空襲の最初の空爆と米軍の進入路
第3節 高松空襲について
第4章 高松市の復興について
第1節 復興、都市計画と現在の高松市
終わりに
呉、下関、青森、空襲に対する他地域の動向 第2節
その他の都市に関する記述をまとめてみた。
・「呉―呉市街への焼夷攻撃をみるとき、日本軍政府の無策ぶりが被害を増大させたと思われる。退避方法を指導せず、もっぱら戦意昂揚をあおる態度が無用の犠牲を増大させた。」
・「下関―内務省は疎開についての告示を出した。下関市では(中略)任意疎開が行われ、ついで建物とその住民との強制疎開が執行された。」
・「青森―米軍が空襲予告ビラをまいていたため。避難・疎開した市民も多くいた。しかし、県知事がこれをとがめて配給物資停止の通告をだしたので、止むなく市内にもどった住民も空襲にあい、」
考察すると、呉市と青森市が疎開に関して否定的で下関市が疎開に対して積極的だと言える。
第1章の死亡率の順位を見てみると、呉市が30位、青森市が36位、下関市が92位である。
まとめる
・疎開に否定的な都市―高松23位、呉30位、青森36位
・疎開に賛成的な都市―松山83位、下関92位
以上の事を踏まえると、疎開に否定的な都市の死亡率が高くて、疎開に賛成的な都市の死亡率は低い事が分かる。
結果として、疎開に対する行政、議会レベルでの対策が人的被害に影響を与えると言う事である。疎開が人的被害を少なくするというのは当然の事だとは言えるが、ここで、分かる事は、当時の日本の国内では、人によって、空襲に関する考え方が違っていたと言う事である。
すなわち、日本では軍国主義教育の結果、空襲時には逃げずに国の教え通り火消しを行う。しかし、現実問題として空襲時の火消しはあまり意味がなく、逃げる事が1番被害を少なくする事である。この2つの考え方があり、国も軍国主義教育とは別に空襲に関しての疎開は国の施策としている。県の行政、議会でも従来の軍国主義教育と現実問題の疎開との2つの考え方があったという事である。
そして、軍事的、経済的に考えてもそれほど重要な都市のない香川県で疎開が全面的に禁止されていたと言うことは軍国主義教育に強く影響を受けていた人が県行政、議会の中枢にいたために疎開が禁止されていたと考える事ができる。
松山空襲 空襲に対する他地域の動向 第2節
第1章のなぜ高松は人口のわりに人的被害が大きいという問は高松では疎開がなされていないからと言うのが答えである。そして、この答えをもっと確かなものにするために他地域を考察してみる。高松以外の地域でも疎開に関しては、積極的だったり、否定的だったりとさまざまである。
注目した都市は愛媛県の松山市である。県の中心都市で、高松と同じく4国の中心都市でもあり、市の規模もほぼ同じである。松山市は当時人口120091人で空襲による死者数が251人である。(資料2)の死亡率の順位では83位である。松山市は高松市と比べて人的被害が少ない。そして、「松山市史」の中に疎開に関する事柄をみつけた。
・「5月11日から、県の指令で花園町を西掘端まで避難・防空道路にするため建物疎開が開始された。(中略)松山上空に飛来した米軍機は、しばしば空襲予告ビラをまいた。此れに対して県と市は、老幼婦女・学童の疎開を勧告する程度しか、なす術がなかった。この時期、空襲の危機が迫った市街地を逃れて郊外に移り住む疎開家族が急増」
考察してみると、松山市史の中では、避難、防空道路のための建物疎開の事や市、県による住民に対して疎開勧告を行った記述、また、市街地を逃れて郊外に移り住む疎開家族が増えた事を記載している。
すなわち、県や市といった行政レベルで疎開に関する事柄を積極的におこなっていると言う事である。結果、県や市といった行政レベルでの疎開にかんする政策によって、人的被害を減らす事に成功している。高松とはまったく逆のパターンである。
高松空襲、なぜ疎開が積極的に行われなかったのか
高松では、近くの良く似た都市である、岡山が空襲され、また、7月4日の空襲がある程度予想されていたにもかかわらず、疎開などの的確な処置が行われなかった。なぜ疎開などの処置が行われなかったのかをまとめたのが次ぎの証言である。
・「(戸祭恭子 中新町) 消防士が飛んで来て、「ほかの家の人が火を消しても、おまえとこだけ消すもんがおらんかったら、ほかの家まで燃えてしまうじゃろが、早
よかえって訓練の時みたいに家を守るんじゃ」とどなった。」
・「(川田秀幸 栗林町) 空襲による火災に対するバケツ・リレーの消火訓練などをこれまで何回となく繰り返してきているのだが、もう付近に人影は全くない。」
・「(藤野寅市) 防空係長 天神前 県防空警備本部に対し、県民の疎開の必要性を強調した。しかし防空警備部長としては、例の国民の志気をくじけさせることになるとの軍の方針とか上局の達しを破ることができず」
・「(大西林次 亀井町) 高松市は家財道具や老人、子供、病人などは疎開させて、市内は若い者ばかりで思いきりの防護活動が出来るように致したいと申出ました
ところ、県側は事重大とおもってか、しばらく待つようにと(中略)高松市の申し出は、とうてい認めることは出来ぬ。何故ならならば、現在でも夜隠に乗じて疎開するものがあって、今、これを厳重に取締まって居り、もしこれを許すとなれば、我も我もと出てゆき、空っぽの市街となる。また他の市町にも影響するとの理由であった。」
・「(喜田清 亀井町) ニュースや映画などでは炎上する市街にバケツリレーに励む人々の姿が映し出され(中略)お父さんは、ちゃんと家を守ってやるぞ。空襲のときには、死んでも家を守れと、お上の命令やけんのう」
・「(桑田尚悦 宮脇町) 竹やり、バケツリレーの猛練習(中略)空襲とはいえ、白昼、家財道具を疎開させるわけにはいかず、暗くなるのを待って、田舎まで運び出すのがやっとというありさまだった。行った先が母の里だったのに、母はふたたび私を連れて家に帰った。「荷物が少々なくなったのはわからないけど人間が1人いなくなったのは人目につきやすいと思ったから。」
・「(渡瀬保 宮脇町) 「何1つ真実をしらせない」、人間はもとより品物を田舎へ疎開させることさえ、「逃げ腰の非国民」、果ては「スパイ」とまできめつけ、」
・「(藤沢義憲 花園町) おかしかったのは町内の警防団長で、日頃1番威張っていた飯間某というひとが真先になって家族を引き連れて逃げたことである。」
これらの証言から考察してみると、高松では岡山が空襲され、近いうちに高松に空襲がやってくるとの予想が市民の間で考えられてきた、これに加えて、7月4日の空襲を予想する情報もあったが、疎開がほとんどなされていない。
原因は、当時の高松市民には空襲の時、バケツリレーにて火を消して、被害を最小限に抑えるという役目を課せられていた事が分かる。高松では、空襲される事が分かっていながら、疎開するという選択肢はなかったようである。空襲による火災を守るために市民は町を離れる事ができなかった。
しかし、大坂や岡山の空襲の教訓から空襲時のバケツリレーがほとんど意味をなさない事は分かってはいた。そして、一部の市民が疎開したいと思っていても隣近所の目を気にするあまり、逃げる事はできない。
現代では失われつつある地域社会も残っていると言う事も言える。
そして、最後の証言では、空襲時に逃げた人に対して軽蔑てきな感情を表現している。空襲時に逃げる事はあたりまえだと思われるが、当時は逃げる事にたいして、軽蔑的な感情があったと考える事ができる。
次に、なぜ、高松では疎開できなかったのかを示すもうひとつの答えが、先ほどの藤野氏の証言の中にある。
藤野氏の証言を説明すると、大坂と岡山の空襲の後、香川県の視察団の一員としてとして大坂、岡山の現地の視察を藤野氏はおこなった。そして、大坂と岡山の県知事や警察部長などの幹部から、空襲の防衛策は「住民の疎開以外に処置なし」と言われた。そのため、香川に帰り上司に住民の疎開を勧めたが、上司に断られたのである。すなわち、藤野氏の証言で分かる事は、高松市の空襲に関する事を取り仕切っている人間が疎開に関して否定的であると言う事が分かる。疎開に関して否定的な人が空襲に関する事を取り仕切っていたために、高松では疎開に関する行政レベルでの処置がまったくなされなかったと言える。
また、市の助役である大西氏の証言で分かる事は高松市助役大西氏と市長鈴木氏の疎開に関する考えは病人や幼児など火消しに参加できない人達は疎開するべきであると考えていた。しかし、香川県の行政の考えかたは火消しに参加できない人達を疎開させてしまったら、それに乗じて、火消しに参加できる人達まで一緒に疎開してしまう危険性があるために、疎開は全面的に禁止するべできであると考えていた。高松市は一部疎開案を県に申し出たが案件は却下されたと言う事である。
この事から分かる事は高松以外の香川県内の市町村でも同じように疎開が禁止されていたという事が考えられる。また、疎開に関する事は県の行政、議会の影響が強いという事も分かる。
(高松空襲写真集より、空襲前の高松)
7月4日高松空襲、なぜ分かったその理由とは?
高松では、岡山空襲などで、そろそろ高松に空襲があると予感できる事は分かったが、これに加えて7月4日に高松に空襲がある事も1部の人間には分かっていたのである。この事を裏付けるのが次ぎに上げる証言である。
・「(帰来富士子 天神町) 「今夜はどうも危ないらしい」と、警察官をしている近所の人から情報を得た。」
・「(山本弘子 中新町) あの日父は「高知から大編隊がきているらしいから散歩のつもりで避難しなさい」」
・「(桑田尚悦) 母は林飛行場の通信隊員から「今夜、高松に空襲があるかもしれない。」という情報をもって帰ったのである。」
・「(樽井正次) 電波兵器がおいてあった。それから空襲を受けることは軍はすこし知っとたんかと思う。それは、高松が空襲をうけた前の日午後6時頃、仕事をし
まう時、大工全部が集められて特別に副官の訓辞があった。その時「みな道具をきちんと整頓してすぐ帰れ」と言われた。」
これらは、高松空襲が7月4日にある事を予想している事を集めた証言である。ここにでてくる林飛行場は戦闘機も配備された軍の施設である。軍ということはある程度米軍の情報を手に入れているということは予想できる。また、電波兵器の存在など、ある程度の情報なら手に入れる事ができる環境にあったとも考える事ができる。
また、この林飛行場には日本の戦闘機のプロベラの木製の模型で置かれていた。これは、林飛行場で空爆の時に本物の戦闘機をカモフラージュするために作られた模型のプロペラ部分である。わざわざ、空襲の時に本物の戦闘機を守るために、偽者の戦闘機模型を作っていたと言うことは空襲をある程度予想しての行動であると考える事ができる。
しかし、日本軍がどの程度高松空襲に関する情報を持っていたのかは不明ではあるが、ここで、分かっている事は、一部の軍の関係者には高松空襲が7月4日ぐらいにあるのではと分かっていたと言うことである。
そして、その高松空襲の情報が軍の関係者から一部の市民に流れていたと考える事ができる。
また、「高松の空襲―手記、資料編」の中に高松空襲予想の記述がある。
・6月末段階で予告ビラが投下されたことは間違いなかろう。
・7月1日かに、西方寺山に、高松は7月3日に空襲するとの予告ビラが投下されたと証言する人もいる。
以上は高松では6月末時期に米軍が予告ビラによって高松空襲の日にちを予告していたのではという記述である。7月4日の高松空襲の予想は軍部から市民に流れた説と予告ビラによっての説がある。しかし、重要な事は、高松では7月4日ぐらいに空襲があるのではとの情報を持っていたと言う事である。
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