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本土空襲と高松空襲!一般市民から見た第2次世界大戦

第一資料に基づいて、アメリカ軍による高松空襲を独自の研究でレポートします。

7月4日高松空襲、なぜ分かったその理由とは?

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7月4日高松空襲、なぜ分かったその理由とは?


(高松空襲写真集より、空襲前の高松)

7月4日高松空襲、なぜ分かったその理由とは?

高松では、岡山空襲などで、そろそろ高松に空襲があると予感できる事は分かったが、これに加えて7月4日に高松に空襲がある事も1部の人間には分かっていたのである。この事を裏付けるのが次ぎに上げる証言である。

 

・「(帰来富士子 天神町) 「今夜はどうも危ないらしい」と、警察官をしている近所の人から情報を得た。」

 

・「(山本弘子 中新町) あの日父は「高知から大編隊がきているらしいから散歩のつもりで避難しなさい」」

 

(桑田尚悦) 母は林飛行場の通信隊員から「今夜、高松に空襲があるかもしれない。」という情報をもって帰ったのである。」

 

・「(樽井正次) 電波兵器がおいてあった。それから空襲を受けることは軍はすこし知っとたんかと思う。それは、高松が空襲をうけた前の日午後6時頃、仕事をし

まう時、大工全部が集められて特別に副官の訓辞があった。その時「みな道具をきちんと整頓してすぐ帰れ」と言われた。」

 

これらは、高松空襲が7月4日にある事を予想している事を集めた証言である。ここにでてくる林飛行場は戦闘機も配備された軍の施設である。軍ということはある程度米軍の情報を手に入れているということは予想できる。また、電波兵器の存在など、ある程度の情報なら手に入れる事ができる環境にあったとも考える事ができる。

 

また、この林飛行場には日本の戦闘機のプロベラの木製の模型で置かれていた。これは、林飛行場で空爆の時に本物の戦闘機をカモフラージュするために作られた模型のプロペラ部分である。わざわざ、空襲の時に本物の戦闘機を守るために、偽者の戦闘機模型を作っていたと言うことは空襲をある程度予想しての行動であると考える事ができる。

 

しかし、日本軍がどの程度高松空襲に関する情報を持っていたのかは不明ではあるが、ここで、分かっている事は、一部の軍の関係者には高松空襲が7月4日ぐらいにあるのではと分かっていたと言うことである。

そして、その高松空襲の情報が軍の関係者から一部の市民に流れていたと考える事ができる。

 

また、「高松の空襲―手記、資料編」の中に高松空襲予想の記述がある。

 

・6月末段階で予告ビラが投下されたことは間違いなかろう。

 

・7月1日かに、西方寺山に、高松は7月3日に空襲するとの予告ビラが投下されたと証言する人もいる。

 

以上は高松では6月末時期に米軍が予告ビラによって高松空襲の日にちを予告していたのではという記述である。7月4日の高松空襲の予想は軍部から市民に流れた説と予告ビラによっての説がある。しかし、重要な事は、高松では7月4日ぐらいに空襲があるのではとの情報を持っていたと言う事である。

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