第一資料に基づいて、アメリカ軍による高松空襲を独自の研究でレポートします。
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第2節高松空襲の最初の空爆と米軍の侵入路
この節では先行研究でも謎とされている高松空襲の最初の空爆場所とこれに関連する米軍の侵入経路について考察していく。
次ぎに提示するのが、高松空襲において、最初に空爆を受けた場所に関する証言と証言者の住んでいた場所である。
「(1・岡元政男 天神前)中野町方面に火の手を確認した。」
「(2・藤野寅市 天神前)(註被災場所は寿町)警察署の屋上監視所で警戒をしていると、突然西南方紫雲山の1角から爆音が起こった。」
「(3・山本弘子 観光町)栗林公園のあたりが赤く染まる。」
「(4・吉田富久美 中新町)私たちの住む中新町は旧市内で攻撃第1派をうけた」
「(5・戸祭恭子 中新町)家から外に飛び出した時、紫雲山がパッと明るかった。」
「(6・亀山茂子 塩上町)ドカンという音に、着のみのままで外に飛び出した時には、琴電の駅のほうが火の海でした。(1番にここに爆弾が落ちたとのことです)」
「(7・佐々木恒夫 今新町)西宝寺の方面から爆音がしたので、上空を見ると、超大型のB29が悠々と姿を表し、西宝寺の山影から市内に攻撃を始めた。」
「(8・下津汎子 南新町)最初に琴電瓦町駅のあたりに火のてが上がった。」
「(9・原田良雄 5番町)東方を見ていると東方の空がボーと赤く焼け出し、西宝寺山が点々と燃える。」
「(10・井上昭 宮脇町)家全体が震動しているような錯覚に襲われ、外に出ると、紫雲山のふもとあたりに火がズラリと並んでいた。」
「(11・倉知千蔵 宮脇町)東の方で真っ赤な火柱が上がった。今度は紫雲山の一帯が火の海となった。」
「(12・藤村幸雄 2番町)敵機襲来の叫び声で外へ出てみると、すでに西宝寺山の頂上付近に火の手があがっいた。(当時は最初に西宝寺山が爆撃されたと信じられていたが確かではない)」
以上が高松空襲の時に最初に空襲を受けた場所に関する証言を抜き出したものである。
証言を検証していくと、おおきく分けて2つの説が立てられる。証言の中に紫雲山と西宝寺山が出てくるが、この2つの山は連なる山で位置的にみてほぼ同じである。そのため、紫雲山と西宝寺山の説は同じ説だという事である。もう1つの説と考えられるのは、6番や8番の瓦町駅近辺が最初に空襲を受けたと言う説である。考えて見ると、紫雲山、西宝寺山説か瓦町駅説かのどちらかが、最初に空爆を受けた場所と言える。
6番と12番の( )の文章は当時の高松市民の意見を表したものである。高松市民の中でも、紫雲山、西宝寺山説と瓦町駅説の2つの意見に別れるという事が証明されている。2つの意見のどちらなのかは、次の高松空襲の空襲進路についての証言で明らかになってくる。
(高松空襲写真集)
高松空襲時の住民の避難
次ぎに高松市民は空襲からどのようにして避難したのか考察してみたい。先ほど上げた、防空壕に避難するというのも空襲から避難するその1つの例である。
「(1・上広亨 西新通町)真っ暗な北の方角へ折れ曲がるものはいなかった。(中略)西へ西への人々の流れに従っていったのである。うしろは火の海、南は十字路ごとに見えたのだが、やはり火の手はあがり、火の粉が舞っていた。」
「(2・藤村幸雄 2番町)逃げた先は西浜新町の高橋の北西方、海岸に近い塩田のなかであった。そのあたりは、空襲の危険はほとんどなく」
「(3・入江久栄 松島町)人波におされて(中略)ついた所が林の飛行場であった」
「(4・中嶋貞夫 天神前)西へ向かってひたすら走った。(中略)赤十字病院の西側から、当時は家がまばらで、空き地や田畑があった。そこへ来た時、死から脱出したのを確信した。」
「(5・山本弘子 中新町)農業用水用の川だと思うが、(中略)川の中から顔だけを出して」
「(6・前川トミエ 藤塚町)隣組の者を全員収容できるほどの、かなりの壕でしたが、ここでの待機は危ない(中略)あらかじめ予定されていた光洋精工へ連れていって貰いました。」
「(7・横山久恵 瓦町)西ヘ西へと走った(中略)香西寺までたどりついた」
「(8・亀山茂子 塩上町)暗いほうへ逃げるのだということで、南へ南へと逃げ」
「(9・佐々木恒夫 今新町)西に向かって1目散に走り出した。」
「(10・藤沢義憲 花園町)家から2、3百メートル走って広い畑の中で近所の人たちと伏せていた。」
「(11・樽井正次 松島町)船にのって逃げた。」
「(12・桂美智 丸亀町)空襲の時は風上に逃げるのがよい(中略)西へ西へと走る」
以上が避難に関しての事柄をまとめたものである。まず、空襲が始まり、避難に関する選択肢として、大きく2つが上げられる。
すなわち、最初の戦災場所からあまり、移動せずに、近くの川や防空壕、防火用水、畑、建物の少ない場所などに避難する。多くは水のある場所に避難している。
もう1つは炎の包囲網を突破して中心地を離れて空襲の被害が少ない郊外に避難する事である。
高松空襲の第1派が中心地の回りを空爆していたために、高松市民は炎の中に取り残された形となっている。空襲に気づき、逃げる準備をして、実際に避難を始める時にはすでに回りは火に囲まれていたと考える事ができる。
高松市民が逃げた方向は実に様々な方角である。東西南北あらゆる方面に避難をおこなっている。
6番の証言以外はあらかじめ避難する場所や方向は決められていなかった事が分かる。唯一、6番の証言では、隣近所の集まりによって、避難する場所が決められていた特殊な例である。これらの事でも分かるように、やはり、空襲時には火を消すという役割を背負っていたために空襲時の避難に間する事を決めるのは難しい社会事情であった事が分かる。
また、1番の証言でも分かるように唯一、火の勢いが弱かった北がわには避難する人は少なかった。理由として考えられる事は火の勢いが弱くても、北は海なので逃げ場がないと判断されたようである。
そして、圧倒的に多いのは西の方向に避難している事である。高松空襲時には高松では西風が吹いていた。空襲の時は風上に避難するのが良いと言う情報が存在していた。すなわち、高松空襲時において、西の方角に非難した人が多いという事は、空襲時に風上に逃げるという情報が広まっていたと考える事ができる。
東京大空襲の手記をみてみると
『「駄目です。風上に逃げなくちゃ。」おそらく父も、この時避難の鉄則を忘れ、動転していたにちがいありません。』
とある。すなわち、空襲の時に風上に逃げると言うことは高松に限った事でなくて、東京でも同じような事が行われており、また、(避難の鉄則)と言う言葉からは広く浸透した考え方だという事も分かる。
防空壕への避、空襲時に防空壕に逃げるのは危険?
市民の空襲中の行動として防空壕に避難したという事が考えられる。そのため、防空壕について考察していきたい。
防空壕については数多くの証言者が語っている。そして、戦時中の高松ではいたる所に防空壕が作られる。しかし、作りは市民の手作りの簡単な作りのものが多かった。
防空壕の意味は「国語辞典」では、(空襲の時に待機するため、地面を掘ってつくった横穴や地下室。)と記載されている。すなわち、空襲から身を守るために作られたものと言える。
ここで、1つの疑問が生まれる。高松市では空襲時は火消しを行い逃げる事は許されないとされていた。にもかかわらず、空襲から身を守るための防空壕が数多く作られていた。この問の答えとなるのが以下である。
「(・喜田清 亀井町) 防空壕へにげるなどは病人か幼児の筈であった。」
「・爆弾が投下されたら防空壕に入ってもいいが、焼夷弾の降下で防空壕に逃げ込む者は、常に非国民であり卑怯者であると教えられていた。」
以上の事柄を考察してみると、爆弾の攻撃の時は市民の力によって、被害を最小限に抑える事はできないので、防空壕を使用する事は許されている。すなわち、爆弾での空襲時は市民は逃げる事が許されていると言う事である。そして、焼夷弾攻撃の時には、火消しによって、被害を抑える事ができると考えれていたために、防空壕は火消しに参加できない人(病人や幼児)しか使用してはいけないと考えられていた事が分かる。
次ぎに高松空襲において防空壕が空襲中どのように使われていたかや、どのような意味合いを持っているかを検証していきたい。防空壕に関する証言は高松空襲体験者の多くの被災者の人達が記述している非常に重要な部分である。
「(・帰来富士子 天神町)近くの防空壕に飛びこんだ。(中略)警防団員が「ここにいては危ない。みんな外へ出てどこへでも走れ」とどなった。(中略)公園付近で、はじめてとびこんだあの壕も、まっ向から爆撃をうけて原型をとどめていなかった。」
「(・中嶋貞夫 天神前)これ以上、壕の中に居ては危険であるから避難しよう。」
「(・戸祭恭子 中新町) 大きな防空壕があったのでそこへとびこんでびっくりした。煙にまかれて窒息した人が折重なって死んでいる。」
「(・横山久恵)弁護士さん1家4人が防空壕の中でむし焼きのようになって全滅していた。」
「(・佐々木恒夫 今新町)1家3人は、数ヶ月して、白骨となって、家の裏の防空壕で発見された。」
「(・喜田清 亀井町)北の方に火勢の弱い所も見られたものの、その方角は海、南への郊外への道も、西側の紫雲山に通ずる道も、壮絶に燃える火の壁、東の市街はそれ以上の炎の大城壁(中略)「お母さん、ぼくの学校へ行こう」(中略)「みんな来まいよ、防空壕があるぜ」(中略)此れが1発、私の壕の上に落ちていたならば、私は1巻のおわりだった訳である。」
「(・下津汎子 南新町)防空壕の中でむし焼き状態で亡くなりました。そこは亀井町の笠井様の防空壕で、当時立派で近所でも有名だったので、入れてもらった人たち10名位がなくなりました」
「(・桑田尚悦 宮脇町)運動場の防空壕にはいらざるをえなかった。」
「(・井上昭 宮脇町)その壕に朝まで居るように(中略)朝、壕から出て、見ればぼくたちの周辺には、焼夷弾1本落ちていませんでした。」
以上の事柄を考察してみると、防空壕に逃げ込んだために死んでしまったケースが多くみられる。また、空襲が始まり、いったんは防空壕に逃げるが、途中で、防空壕を後にするケースも多く見られる。
空襲中、防空壕で過ごして、命が助かった人達は、空襲が比較的少なかった地域や学校の運動場の防空壕などである。
防空壕の中で死んでしまった人達の死因は煙にまかれる、蒸し焼きになる、焼夷弾や爆弾の直撃、などである。
多いのは、煙にまかれたり、熱さによる死因である。すなわち、建物が密集している地域では、回りに燃えるものも多いために、火災による、熱の上昇や煙が多く発生する。そのために、建物が密集して、しかも建物が多く焼失した地域では防空壕に逃げ込むという行為が逆に死因に繋がって、逃げ場を失って死んでしまったケースが多い。
また、喜田氏のように空襲が激しく建物の焼失が激しかった地域でも、学校の運動場のように回りに建物がないという場所の場合は爆弾や焼夷弾の直撃をくらわない限り、防空壕に逃げていれば命は助かるという訳である。
防空壕に関して全体的に考えてみると、空襲時に命を守るために、作られて、利用されたものが、逆に、防空壕が死因の原因となっている事である。
(高松空襲写真集)
高松空襲中の市民のとった行動 第1節
高松空襲中、市民はどのような行動をとっていったのかを検証していく。
先ほどの第2章で高松市民には空襲時にバケツリレーにて火を消す役目が与えられていた事が分かるが、はたして本当に高松空襲時に火消しが本当に行われていたか、行われていなかったのかを検証していきたいと思う。
また、空襲中に市民のとった行動として防空壕や避難に関することも考察していく。
以下に示すのが高松空襲戦災者の証言である。
「(1・岡本政男 天神前)妻と子供達全部は隣組の防空壕内へ非難させた。私はバケツを持って表へ飛び出した。火勢だけは猛勢力だと知り、1人2人では消火は出来ない。今の間に撤退だ。」
「(2・熊井輝義 香西町)(義兄は古馬町)義兄は家族や近所に住んでいた親類の人達をこの場所に移してから再び自宅のほうへ引き換えして消火に当ろうとした。」
「(3・岩瀬清幸 藤塚町) 母と妹を逃がした。(中略)自分の家は守り通すつもりで必死に火を消した。(中略)遂に近所は火の海となった。気がつくと誰もいない。父と共に脱出した。」
「(4・川田秀幸 栗林町)空襲による火災に対する消火訓練など何回となく繰り返してきているのだが、もう付近に人影は全くない。(中略)父と竹田さんと私の3人で次々と消していった。(空襲が終わるまで消火活動を行ってた。)」
「(5・中嶋貞夫 天神前)平常から厳しい消火訓練をやっていたが、消火に励む人は、どこにも見られなかった。」
「(6・宮崎孝昭 塩上町) 私の家は幸いにも近所の人々の消火活動によって焼け残っていた。」
「(7・原田良雄 5番町)県庁が燃え始めた。水槽の水をかけて消火に勤める。其のうち水槽の水がなくなる。)
「(8・藤野寅市 天神前)(被災場所―警察署―寿町)本部員の退避は今が最後のチャンスです。後は私達が死守します。同署1階及び本部の類焼をくいとめた。」
火消しなどの空襲中の事は資料が膨大なためにその全てを今回の研究で記述する事はできない。以上8例上げたのは空襲中の火消しに関する証言の中でほんの1部である。しかし、この8例の中のどれかの行動と良く似た行動をほとんどの被災者が行っている。
被災場所は、1番から6番までが家での戦災であるように、ほとんどを占めるのが家である。これは、空襲の最初が夜中という時間が大きく関係している。また、1部ではあるが7番、8番のように職場や家以外の所での被災も存在している。これは、7月3日の午後11時過ぎの空襲警報や高松空襲が警戒警報中の空襲だったためである。
さて、高松市民に義務として空襲時の火消しが課せられていたのだが、実際はどうだったのだろうか。結果は戦災者のとった行動は1番や5番の証言のように、殆どが火消しを行わずに避難している。高松空襲体験者談の中でも被災者の殆どがどのように空襲から逃げたという記述が殆どを占めている。
しかし、4番のように、周りは避難したが、自分達だけは最後まで火消しを行うなど1部ではあるが、国家や県、市に忠実に火消しを行った例も存在している。
ここで、高松空襲時の市民による火消しに関する事をまとめてみる。
・大勢の市民が火消しを行わずに空襲から避
難している。
・1部ではあるが市民による火消しを行っている。
・火消しを行った人達の中でも最後まで火消しを行った例はまれで、大抵は途中で諦めて避難している。
・火消しを行った人達に共通している事はほとんが男である。妻や幼い子供は先に空襲から避難して男が火消しを行っている。
以上が高松空襲における火消しに関する事をまとめたものである。高松空襲が始まると同時に市民の避難が始まるのだが、この事は空襲=火消しではなくて、空襲=避難なのである。
高松市民の本音とたてまえが見えてくる。すなわち、たてまえでは、軍国主義の意思である、被害を最小限に食い止めるための火消しを行うために疎開はしない。しかし、本音では空襲になれば、火消しを行わずに速やかに避難する。
高松市民は本格的な空襲になればバケツリレーの火消しなどほとんど意味をなさない事を知っていたのだろう。それに、空襲時の消火活動は命の危険も非常に高いと言う事も考えられる。住みなれた家や生活空間を焼かれてしまうのは悲しい事だと思うが、それ以上に、自分自身や家族などの命のほうが大切だと言う事である。
(高松空襲写真集・空襲前の高松)
第3章高松空襲中のことについて
空襲中の事については今回の研究での中心と考えている。
空襲中に住民達がどのような行動を取ったのか、その行動を探る上で、重要になるのが、実際に空襲時に高松で住んでいた人達の証言である。データとして、その証拠になる裏づけにする為には、たくさんの空襲経験者の証言を集めて、共通点を拾い上げる必要がある。
証言者の言葉から7月4日の高松、そこから、アメリカ軍の戦争犯罪が暴いていく。
空襲中に市民のとった行動や空爆の被害や経路、天候、時間など幅広く論じて、高松空襲の真の姿を紹介していく。
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