第一資料に基づいて、アメリカ軍による高松空襲を独自の研究でレポートします。
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(高松空襲写真集)
高松空襲中の市民のとった行動 第1節
高松空襲中、市民はどのような行動をとっていったのかを検証していく。
先ほどの第2章で高松市民には空襲時にバケツリレーにて火を消す役目が与えられていた事が分かるが、はたして本当に高松空襲時に火消しが本当に行われていたか、行われていなかったのかを検証していきたいと思う。
また、空襲中に市民のとった行動として防空壕や避難に関することも考察していく。
以下に示すのが高松空襲戦災者の証言である。
「(1・岡本政男 天神前)妻と子供達全部は隣組の防空壕内へ非難させた。私はバケツを持って表へ飛び出した。火勢だけは猛勢力だと知り、1人2人では消火は出来ない。今の間に撤退だ。」
「(2・熊井輝義 香西町)(義兄は古馬町)義兄は家族や近所に住んでいた親類の人達をこの場所に移してから再び自宅のほうへ引き換えして消火に当ろうとした。」
「(3・岩瀬清幸 藤塚町) 母と妹を逃がした。(中略)自分の家は守り通すつもりで必死に火を消した。(中略)遂に近所は火の海となった。気がつくと誰もいない。父と共に脱出した。」
「(4・川田秀幸 栗林町)空襲による火災に対する消火訓練など何回となく繰り返してきているのだが、もう付近に人影は全くない。(中略)父と竹田さんと私の3人で次々と消していった。(空襲が終わるまで消火活動を行ってた。)」
「(5・中嶋貞夫 天神前)平常から厳しい消火訓練をやっていたが、消火に励む人は、どこにも見られなかった。」
「(6・宮崎孝昭 塩上町) 私の家は幸いにも近所の人々の消火活動によって焼け残っていた。」
「(7・原田良雄 5番町)県庁が燃え始めた。水槽の水をかけて消火に勤める。其のうち水槽の水がなくなる。)
「(8・藤野寅市 天神前)(被災場所―警察署―寿町)本部員の退避は今が最後のチャンスです。後は私達が死守します。同署1階及び本部の類焼をくいとめた。」
火消しなどの空襲中の事は資料が膨大なためにその全てを今回の研究で記述する事はできない。以上8例上げたのは空襲中の火消しに関する証言の中でほんの1部である。しかし、この8例の中のどれかの行動と良く似た行動をほとんどの被災者が行っている。
被災場所は、1番から6番までが家での戦災であるように、ほとんどを占めるのが家である。これは、空襲の最初が夜中という時間が大きく関係している。また、1部ではあるが7番、8番のように職場や家以外の所での被災も存在している。これは、7月3日の午後11時過ぎの空襲警報や高松空襲が警戒警報中の空襲だったためである。
さて、高松市民に義務として空襲時の火消しが課せられていたのだが、実際はどうだったのだろうか。結果は戦災者のとった行動は1番や5番の証言のように、殆どが火消しを行わずに避難している。高松空襲体験者談の中でも被災者の殆どがどのように空襲から逃げたという記述が殆どを占めている。
しかし、4番のように、周りは避難したが、自分達だけは最後まで火消しを行うなど1部ではあるが、国家や県、市に忠実に火消しを行った例も存在している。
ここで、高松空襲時の市民による火消しに関する事をまとめてみる。
・大勢の市民が火消しを行わずに空襲から避
難している。
・1部ではあるが市民による火消しを行っている。
・火消しを行った人達の中でも最後まで火消しを行った例はまれで、大抵は途中で諦めて避難している。
・火消しを行った人達に共通している事はほとんが男である。妻や幼い子供は先に空襲から避難して男が火消しを行っている。
以上が高松空襲における火消しに関する事をまとめたものである。高松空襲が始まると同時に市民の避難が始まるのだが、この事は空襲=火消しではなくて、空襲=避難なのである。
高松市民の本音とたてまえが見えてくる。すなわち、たてまえでは、軍国主義の意思である、被害を最小限に食い止めるための火消しを行うために疎開はしない。しかし、本音では空襲になれば、火消しを行わずに速やかに避難する。
高松市民は本格的な空襲になればバケツリレーの火消しなどほとんど意味をなさない事を知っていたのだろう。それに、空襲時の消火活動は命の危険も非常に高いと言う事も考えられる。住みなれた家や生活空間を焼かれてしまうのは悲しい事だと思うが、それ以上に、自分自身や家族などの命のほうが大切だと言う事である。
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