第一資料に基づいて、アメリカ軍による高松空襲を独自の研究でレポートします。
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(高松空襲写真集)
高松空襲時の住民の避難
次ぎに高松市民は空襲からどのようにして避難したのか考察してみたい。先ほど上げた、防空壕に避難するというのも空襲から避難するその1つの例である。
「(1・上広亨 西新通町)真っ暗な北の方角へ折れ曲がるものはいなかった。(中略)西へ西への人々の流れに従っていったのである。うしろは火の海、南は十字路ごとに見えたのだが、やはり火の手はあがり、火の粉が舞っていた。」
「(2・藤村幸雄 2番町)逃げた先は西浜新町の高橋の北西方、海岸に近い塩田のなかであった。そのあたりは、空襲の危険はほとんどなく」
「(3・入江久栄 松島町)人波におされて(中略)ついた所が林の飛行場であった」
「(4・中嶋貞夫 天神前)西へ向かってひたすら走った。(中略)赤十字病院の西側から、当時は家がまばらで、空き地や田畑があった。そこへ来た時、死から脱出したのを確信した。」
「(5・山本弘子 中新町)農業用水用の川だと思うが、(中略)川の中から顔だけを出して」
「(6・前川トミエ 藤塚町)隣組の者を全員収容できるほどの、かなりの壕でしたが、ここでの待機は危ない(中略)あらかじめ予定されていた光洋精工へ連れていって貰いました。」
「(7・横山久恵 瓦町)西ヘ西へと走った(中略)香西寺までたどりついた」
「(8・亀山茂子 塩上町)暗いほうへ逃げるのだということで、南へ南へと逃げ」
「(9・佐々木恒夫 今新町)西に向かって1目散に走り出した。」
「(10・藤沢義憲 花園町)家から2、3百メートル走って広い畑の中で近所の人たちと伏せていた。」
「(11・樽井正次 松島町)船にのって逃げた。」
「(12・桂美智 丸亀町)空襲の時は風上に逃げるのがよい(中略)西へ西へと走る」
以上が避難に関しての事柄をまとめたものである。まず、空襲が始まり、避難に関する選択肢として、大きく2つが上げられる。
すなわち、最初の戦災場所からあまり、移動せずに、近くの川や防空壕、防火用水、畑、建物の少ない場所などに避難する。多くは水のある場所に避難している。
もう1つは炎の包囲網を突破して中心地を離れて空襲の被害が少ない郊外に避難する事である。
高松空襲の第1派が中心地の回りを空爆していたために、高松市民は炎の中に取り残された形となっている。空襲に気づき、逃げる準備をして、実際に避難を始める時にはすでに回りは火に囲まれていたと考える事ができる。
高松市民が逃げた方向は実に様々な方角である。東西南北あらゆる方面に避難をおこなっている。
6番の証言以外はあらかじめ避難する場所や方向は決められていなかった事が分かる。唯一、6番の証言では、隣近所の集まりによって、避難する場所が決められていた特殊な例である。これらの事でも分かるように、やはり、空襲時には火を消すという役割を背負っていたために空襲時の避難に間する事を決めるのは難しい社会事情であった事が分かる。
また、1番の証言でも分かるように唯一、火の勢いが弱かった北がわには避難する人は少なかった。理由として考えられる事は火の勢いが弱くても、北は海なので逃げ場がないと判断されたようである。
そして、圧倒的に多いのは西の方向に避難している事である。高松空襲時には高松では西風が吹いていた。空襲の時は風上に避難するのが良いと言う情報が存在していた。すなわち、高松空襲時において、西の方角に非難した人が多いという事は、空襲時に風上に逃げるという情報が広まっていたと考える事ができる。
東京大空襲の手記をみてみると
『「駄目です。風上に逃げなくちゃ。」おそらく父も、この時避難の鉄則を忘れ、動転していたにちがいありません。』
とある。すなわち、空襲の時に風上に逃げると言うことは高松に限った事でなくて、東京でも同じような事が行われており、また、(避難の鉄則)と言う言葉からは広く浸透した考え方だという事も分かる。
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