第一資料に基づいて、アメリカ軍による高松空襲を独自の研究でレポートします。
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高松空襲の始まり時間
高松空襲が行われた時間についてだが、米軍資料では1945年7月4日2時56分が第1目標時間と記載されている。また、高松市市民文化センター平和記念室の展示や同施設から発行されている「高松空襲写真集」でも同じく7月4日2時56分が高松上空に1番機の到着時間と記載されている。これは、米軍資料を基に製作されたものと考える事ができる。
「高松空襲戦災史」では7月4日午後1時半から3時頃の間と記載されており時間の断定がなされていない。また、「高松市史年表」では7月4日午前1時48分ごろと記載している。だいぶ時間の誤差がみられる。
次ぎに高松空襲被災者の証言を提示してみる。証言に関しては、空襲後になんらかの資料を見ての証言は省き体験者の体感されたと思われる時間に関してのみの証言をまとめる事にした。
「(・喜田清 南亀井町)警戒警報が発令されたのは、7月4日の午後0時以前だったか、それとも以後か、とにかく午後1時すぎ、」
「(・松原喜次郎 東瓦町)当夜空襲警報の発令になったのは、たしか7月3日の午後12時頃だと思います。なかなか空襲警報は解除されない。」
「(・池田菊江 新瓦町)午後1時過ぎ母の気配にめが覚めました。母と一緒に外へ飛び出しました。」
「(・前川トミエ 藤塚町)とにかく、7月4日の午後1時過ぎ、空から焼夷弾が落ちはじめると」
「(・岡本正男 天神前)午後2時頃だったかな?」
「(・原田良雄 5番町)1時過ぎであったと思う、徳島がやられているそうなので東方を見ていると遥か東方がボーと赤く焼け出した、何分経ったのか判然しないが、突然焼夷弾落下の音がした」
高松空襲体験者の証言もかなり誤差がみられる。後ほど記載する死者数、敵機数などを含めて、高松空襲に関する公式なデータのほとんどには誤差がみられる。時間に関しても結論から言えば正確な時間を把握する事は難しい。そして、「高松空襲戦災誌」の記載のように時間を断定する事自体が不可能に近いという事がいえる。
しかし、おおまかな時間の特定はできそうである。まず、7月3日の0時ぐらいに警戒警報か空襲警報のどちらかが発令されている。これは、(高松の空襲―手記編)の作者が作った資料の部分では警戒警報中の空爆であると記載されている。そして、資料と被災者の証言で一致している事は7月4日の午後1時以降に空爆されていると言う事である。
そして、高松市史年表と被災者の証言では1時過ぎから2時ぐらいの間の空襲と言う事で情報的にはほぼ一致していると言う事が分かる。
ここで問題点が発生
米軍資料と平和記念室の2時56分とは、ほぼ1時間近い時間の誤差がある。高松市史年表は議会や消防など県、市の公的な機関の報告書をまとめたものなので、いうなれば、高松空襲戦災者の生の証言をもとに作られた物である。この事を考えると高松空襲戦災者の証言とほぼ一致していると言う事は不思議ではない。また、さきほど上げた証言は被災者の体感されたであろう情報のみを上げている。被災者の体感された時間がすべて、1時すぎから2時の間と言う事は、信頼性の高い有力な情報である。もし、2時56分だとすると、1時間以上も体感された時間が何人も違ったりするとは考えにくい。
そして、米軍資料のほうを見てみると2時56分は(第1目標上空時間)と記載されている。これは、1番機の到着の目標の時間なので、あくまでも予定と考える事ができ、実際に到着した時間とは違うのではないかと考察する事ができる。
すなわち、高松空襲が行われた最初の時間は高松空襲戦災者の証言通り、7月4日の1時過ぎから2時の間ぐらいであると言う事が言える。
(高松空襲写真集)
第3節高松空襲について
第3節では、高松空襲の開始と終了時間、敵機の数、爆弾の種類、空襲直前の石油、高松空襲の日付、天候、攻撃方法、迎撃体制、など具体的な事柄を高松空襲体験者の証言を考察して考えていき、そして、米軍資料で裏付けをして高松空襲についてどのよなものなのかを解き明かしていく。
高松市の公式見解と高松空襲体験者の証言には、一致する所もあれば、違う内容もある。また同じ資料であってもページ数によって違っている部分もある。
なぜ、様々な情報が交錯しているのか、その辺りの事を様々な視点から考察していくことで、高松空襲の真実の姿が見えてくる。
そして、章の最後に高松空襲中の事についてのまとめを行う。
高松空襲の空襲経路
高松空襲においてどのように空襲されていったのかを検証していく。次ぎに提示するのは高松空襲体験者の証言を抜き出したものである。
「(・藤野寅市 天神前)(香川県警察防空課長)(被災場所 現高松北警察署付近)攻撃の第一派は紫雲山から紙町常盤製紙工場辺りを貫き屋島方面に抜け、第二派も同じ方角から侵入し、天神前、塩上町辺りに及び、第三派より順次北側へ北側へと爆撃が向けられ高松市は3、40分にして火の海と化した。」
「(・川田秀幸 栗林町)紫雲山の北の空にB29が姿を表わす。焼夷弾を投下したB29は東方から高松沖に抜ける。」
「(・佐々木恒夫 今新町)西宝寺の向こうがわの鬼無の方でも侵入路になっていたので、数件の家が全焼したことを聞いた。」
「(・渡瀬保 宮脇町)高松の空襲では逃げられないように囲りから先に爆撃や焼夷弾を落としたので、この辺りの山のなかでは沢山の人々が死んだ。」
すべての証言で一致している事は、高松市の西側からB29が侵入して、爆撃を行った事である。これらをまとめたのが地図中の赤線の侵入経路である。地図中に赤線を引いてみると、第一派の攻撃は高松の中心地の回りにそって行われている事が証明される。
高松空襲において、最初に空襲された場所は、侵入経路から考察してみると、西から東に向かってB29が侵入したという事は、西側が最初に空爆された可能性が非常に高いという事が言える。また、西側が最初に空爆されたという証言のほうが圧倒的に多い。
そして、もう1つの要素として、風については、後で詳しく説明するが、高松空襲時には西風が吹いていた。空襲を行うなら、風上に焼夷弾を投下したほうが効率が良い。なぜなら、風の力によって、風上に投下された焼夷弾が風下に向かって火が広範囲に広がるからである。高松空襲時には西風が吹いていたと言う事は最初に焼夷弾を風上である西に投下したと考える事ができる。
すなわち、高松中心地の西側に位置する紫雲山、西宝山付近に焼夷弾を投下すれば、西風の力によって、中心地にまで火が燃え広がる可能性があると言う事である。よって、紫雲山、西宝山説の方が有力と考える事ができる。
これらの、B29の侵入路、戦災者の多数決、風の3つの事を考察してみると、紫雲山、西宝山説が高松空襲において、最初に空爆を受けた場所だと言う事が言える。
高松空襲で最初に空爆された紫雲山付近は偶然にも、10年ぐらい前に私自身が住んでいた場所である。高松の町は中心地を少しでも離れると田舎になる。私が住んでいた場所は田舎だったが、少し歩くと、高松の中心地に行く事ができるという場所であった。高松の中心地は現在と空爆前とでは、中心地の場所はほぼ同じである。
高松の空襲では、いきなり、人が多く住む中心地には空爆せずに、人が少ない場所に空爆したという事が言える。これは、逃げ道を最初に空爆して、逃げ場をなくす事を目的にしていたと考察する事ができる。
また、瓦町駅は高松の中心地に位置している。そして、紫雲山付近と瓦町駅付近の空爆された時刻は、さほどの時間差はないと考えられる。これに関する証言が以下の通りである。
「(・桂美智 丸亀町)稲荷山のあたりから明るくなって火の手があがり、ちょっと東へよったところと、屋島のあたりと、あっと思うまに火の手があがった。
「(・大西林次 亀井町)空襲警報が鳴り響くので市庁舎に駆けつけ展望台へ急いだ。屋島、八栗山方面より、又、西宝山方面より歩調を合わせるように黄色い花火のついたもの、此れが焼夷弾だ。たちまち市内の各所より火災となる。」
この証言は高松空襲第一派の様子を表すもので、共通しているのが、第一派の攻撃はほぼ同じ時刻にされていると言う事である。ちなみに、稲荷山は西宝山に連なる山の1つである。そして、大西氏の証言は高松空襲第一派の空襲の流れを説明しているものである。
また、紫雲山ふもとから瓦町駅までは、距離的に非常に近い。地図上では約2キロぐらいで、また、私の経験上では、車で道路がすいていたなら、10分はかからない距離にある。そして、高松空襲は最初の空爆から30分から40分の間に中心地全域に戦火が広がった事を考えれば、第一派の攻撃の時間もそれほど経過していない事が考えられる。
また、高松空襲被災者が西宝山、紫雲山説と瓦町駅説を唱えると言う事は、2つの地点の空爆時間にそれほどの差がないから、どちらが先に空爆されたのか混乱するのだと言う事が言える。
まとめると、高松空襲では、高松市内の西側からB29が侵入して、空爆を行い、中心地南よりの瓦町駅付近を通過して、北東に抜けて、第一派が空爆を行い、中心地の回りを空爆する事によって、市民の逃げ道を奪い、その後、市内全域に空爆を行ったと言う事である。
最初に中心地の回りを爆撃し、人の逃げ道を奪った事は、高松空襲の特徴の1つである人的被害の大きさに繋がっていると考える事ができる。
高松空襲の爆撃の流れを検証してみて、米軍の最大の目的は市民を殺す事にあると思われる。なぜなら、わざわざ、最初に人があまり住んでいない、場所を空爆して逃げ道をなくしてしまうという行為、もし、建物を焼く事が目的なら、直接、建物を爆撃するはずである。また、高松にはそれほど重要な軍事的な拠点がない。軍事的な拠点の無い場所への空爆とは、市民や住居を狙う、きわめて、残忍な行為だと考える事ができる。
高松において数少ない軍事的なものと考えられるのが、林町の飛行場である。林町は高松市の中心から南東に進んだ所にある町である。林町の飛行場は第2次大戦時に市民の協力のもとに作られた本土決戦ようの飛行場である。当時、林町の飛行場には戦闘機が配備されていた。
しかし、高松空襲の時にこの林町の飛行場はほとんど空襲を受けていない。本来戦争というものじたいやっては行けない行為ではあるが、もし、戦争というものを行ってしまった場合であっても軍事的な拠点を攻撃するべきである。軍事的な拠点を攻撃せずに、人や戦争とは関係のない建物を爆撃しいる。高松空襲の米軍の目的は、軍事的な目的ではなく、人と生活する建物にダメージを与える事にあったと考える事ができる。
第2節高松空襲の最初の空爆と米軍の侵入路
この節では先行研究でも謎とされている高松空襲の最初の空爆場所とこれに関連する米軍の侵入経路について考察していく。
次ぎに提示するのが、高松空襲において、最初に空爆を受けた場所に関する証言と証言者の住んでいた場所である。
「(1・岡元政男 天神前)中野町方面に火の手を確認した。」
「(2・藤野寅市 天神前)(註被災場所は寿町)警察署の屋上監視所で警戒をしていると、突然西南方紫雲山の1角から爆音が起こった。」
「(3・山本弘子 観光町)栗林公園のあたりが赤く染まる。」
「(4・吉田富久美 中新町)私たちの住む中新町は旧市内で攻撃第1派をうけた」
「(5・戸祭恭子 中新町)家から外に飛び出した時、紫雲山がパッと明るかった。」
「(6・亀山茂子 塩上町)ドカンという音に、着のみのままで外に飛び出した時には、琴電の駅のほうが火の海でした。(1番にここに爆弾が落ちたとのことです)」
「(7・佐々木恒夫 今新町)西宝寺の方面から爆音がしたので、上空を見ると、超大型のB29が悠々と姿を表し、西宝寺の山影から市内に攻撃を始めた。」
「(8・下津汎子 南新町)最初に琴電瓦町駅のあたりに火のてが上がった。」
「(9・原田良雄 5番町)東方を見ていると東方の空がボーと赤く焼け出し、西宝寺山が点々と燃える。」
「(10・井上昭 宮脇町)家全体が震動しているような錯覚に襲われ、外に出ると、紫雲山のふもとあたりに火がズラリと並んでいた。」
「(11・倉知千蔵 宮脇町)東の方で真っ赤な火柱が上がった。今度は紫雲山の一帯が火の海となった。」
「(12・藤村幸雄 2番町)敵機襲来の叫び声で外へ出てみると、すでに西宝寺山の頂上付近に火の手があがっいた。(当時は最初に西宝寺山が爆撃されたと信じられていたが確かではない)」
以上が高松空襲の時に最初に空襲を受けた場所に関する証言を抜き出したものである。
証言を検証していくと、おおきく分けて2つの説が立てられる。証言の中に紫雲山と西宝寺山が出てくるが、この2つの山は連なる山で位置的にみてほぼ同じである。そのため、紫雲山と西宝寺山の説は同じ説だという事である。もう1つの説と考えられるのは、6番や8番の瓦町駅近辺が最初に空襲を受けたと言う説である。考えて見ると、紫雲山、西宝寺山説か瓦町駅説かのどちらかが、最初に空爆を受けた場所と言える。
6番と12番の( )の文章は当時の高松市民の意見を表したものである。高松市民の中でも、紫雲山、西宝寺山説と瓦町駅説の2つの意見に別れるという事が証明されている。2つの意見のどちらなのかは、次の高松空襲の空襲進路についての証言で明らかになってくる。
(高松空襲写真集)
高松空襲時の住民の避難
次ぎに高松市民は空襲からどのようにして避難したのか考察してみたい。先ほど上げた、防空壕に避難するというのも空襲から避難するその1つの例である。
「(1・上広亨 西新通町)真っ暗な北の方角へ折れ曲がるものはいなかった。(中略)西へ西への人々の流れに従っていったのである。うしろは火の海、南は十字路ごとに見えたのだが、やはり火の手はあがり、火の粉が舞っていた。」
「(2・藤村幸雄 2番町)逃げた先は西浜新町の高橋の北西方、海岸に近い塩田のなかであった。そのあたりは、空襲の危険はほとんどなく」
「(3・入江久栄 松島町)人波におされて(中略)ついた所が林の飛行場であった」
「(4・中嶋貞夫 天神前)西へ向かってひたすら走った。(中略)赤十字病院の西側から、当時は家がまばらで、空き地や田畑があった。そこへ来た時、死から脱出したのを確信した。」
「(5・山本弘子 中新町)農業用水用の川だと思うが、(中略)川の中から顔だけを出して」
「(6・前川トミエ 藤塚町)隣組の者を全員収容できるほどの、かなりの壕でしたが、ここでの待機は危ない(中略)あらかじめ予定されていた光洋精工へ連れていって貰いました。」
「(7・横山久恵 瓦町)西ヘ西へと走った(中略)香西寺までたどりついた」
「(8・亀山茂子 塩上町)暗いほうへ逃げるのだということで、南へ南へと逃げ」
「(9・佐々木恒夫 今新町)西に向かって1目散に走り出した。」
「(10・藤沢義憲 花園町)家から2、3百メートル走って広い畑の中で近所の人たちと伏せていた。」
「(11・樽井正次 松島町)船にのって逃げた。」
「(12・桂美智 丸亀町)空襲の時は風上に逃げるのがよい(中略)西へ西へと走る」
以上が避難に関しての事柄をまとめたものである。まず、空襲が始まり、避難に関する選択肢として、大きく2つが上げられる。
すなわち、最初の戦災場所からあまり、移動せずに、近くの川や防空壕、防火用水、畑、建物の少ない場所などに避難する。多くは水のある場所に避難している。
もう1つは炎の包囲網を突破して中心地を離れて空襲の被害が少ない郊外に避難する事である。
高松空襲の第1派が中心地の回りを空爆していたために、高松市民は炎の中に取り残された形となっている。空襲に気づき、逃げる準備をして、実際に避難を始める時にはすでに回りは火に囲まれていたと考える事ができる。
高松市民が逃げた方向は実に様々な方角である。東西南北あらゆる方面に避難をおこなっている。
6番の証言以外はあらかじめ避難する場所や方向は決められていなかった事が分かる。唯一、6番の証言では、隣近所の集まりによって、避難する場所が決められていた特殊な例である。これらの事でも分かるように、やはり、空襲時には火を消すという役割を背負っていたために空襲時の避難に間する事を決めるのは難しい社会事情であった事が分かる。
また、1番の証言でも分かるように唯一、火の勢いが弱かった北がわには避難する人は少なかった。理由として考えられる事は火の勢いが弱くても、北は海なので逃げ場がないと判断されたようである。
そして、圧倒的に多いのは西の方向に避難している事である。高松空襲時には高松では西風が吹いていた。空襲の時は風上に避難するのが良いと言う情報が存在していた。すなわち、高松空襲時において、西の方角に非難した人が多いという事は、空襲時に風上に逃げるという情報が広まっていたと考える事ができる。
東京大空襲の手記をみてみると
『「駄目です。風上に逃げなくちゃ。」おそらく父も、この時避難の鉄則を忘れ、動転していたにちがいありません。』
とある。すなわち、空襲の時に風上に逃げると言うことは高松に限った事でなくて、東京でも同じような事が行われており、また、(避難の鉄則)と言う言葉からは広く浸透した考え方だという事も分かる。
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