第一資料に基づいて、アメリカ軍による高松空襲を独自の研究でレポートします。
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高松空襲の空襲経路
高松空襲においてどのように空襲されていったのかを検証していく。次ぎに提示するのは高松空襲体験者の証言を抜き出したものである。
「(・藤野寅市 天神前)(香川県警察防空課長)(被災場所 現高松北警察署付近)攻撃の第一派は紫雲山から紙町常盤製紙工場辺りを貫き屋島方面に抜け、第二派も同じ方角から侵入し、天神前、塩上町辺りに及び、第三派より順次北側へ北側へと爆撃が向けられ高松市は3、40分にして火の海と化した。」
「(・川田秀幸 栗林町)紫雲山の北の空にB29が姿を表わす。焼夷弾を投下したB29は東方から高松沖に抜ける。」
「(・佐々木恒夫 今新町)西宝寺の向こうがわの鬼無の方でも侵入路になっていたので、数件の家が全焼したことを聞いた。」
「(・渡瀬保 宮脇町)高松の空襲では逃げられないように囲りから先に爆撃や焼夷弾を落としたので、この辺りの山のなかでは沢山の人々が死んだ。」
すべての証言で一致している事は、高松市の西側からB29が侵入して、爆撃を行った事である。これらをまとめたのが地図中の赤線の侵入経路である。地図中に赤線を引いてみると、第一派の攻撃は高松の中心地の回りにそって行われている事が証明される。
高松空襲において、最初に空襲された場所は、侵入経路から考察してみると、西から東に向かってB29が侵入したという事は、西側が最初に空爆された可能性が非常に高いという事が言える。また、西側が最初に空爆されたという証言のほうが圧倒的に多い。
そして、もう1つの要素として、風については、後で詳しく説明するが、高松空襲時には西風が吹いていた。空襲を行うなら、風上に焼夷弾を投下したほうが効率が良い。なぜなら、風の力によって、風上に投下された焼夷弾が風下に向かって火が広範囲に広がるからである。高松空襲時には西風が吹いていたと言う事は最初に焼夷弾を風上である西に投下したと考える事ができる。
すなわち、高松中心地の西側に位置する紫雲山、西宝山付近に焼夷弾を投下すれば、西風の力によって、中心地にまで火が燃え広がる可能性があると言う事である。よって、紫雲山、西宝山説の方が有力と考える事ができる。
これらの、B29の侵入路、戦災者の多数決、風の3つの事を考察してみると、紫雲山、西宝山説が高松空襲において、最初に空爆を受けた場所だと言う事が言える。
高松空襲で最初に空爆された紫雲山付近は偶然にも、10年ぐらい前に私自身が住んでいた場所である。高松の町は中心地を少しでも離れると田舎になる。私が住んでいた場所は田舎だったが、少し歩くと、高松の中心地に行く事ができるという場所であった。高松の中心地は現在と空爆前とでは、中心地の場所はほぼ同じである。
高松の空襲では、いきなり、人が多く住む中心地には空爆せずに、人が少ない場所に空爆したという事が言える。これは、逃げ道を最初に空爆して、逃げ場をなくす事を目的にしていたと考察する事ができる。
また、瓦町駅は高松の中心地に位置している。そして、紫雲山付近と瓦町駅付近の空爆された時刻は、さほどの時間差はないと考えられる。これに関する証言が以下の通りである。
「(・桂美智 丸亀町)稲荷山のあたりから明るくなって火の手があがり、ちょっと東へよったところと、屋島のあたりと、あっと思うまに火の手があがった。
「(・大西林次 亀井町)空襲警報が鳴り響くので市庁舎に駆けつけ展望台へ急いだ。屋島、八栗山方面より、又、西宝山方面より歩調を合わせるように黄色い花火のついたもの、此れが焼夷弾だ。たちまち市内の各所より火災となる。」
この証言は高松空襲第一派の様子を表すもので、共通しているのが、第一派の攻撃はほぼ同じ時刻にされていると言う事である。ちなみに、稲荷山は西宝山に連なる山の1つである。そして、大西氏の証言は高松空襲第一派の空襲の流れを説明しているものである。
また、紫雲山ふもとから瓦町駅までは、距離的に非常に近い。地図上では約2キロぐらいで、また、私の経験上では、車で道路がすいていたなら、10分はかからない距離にある。そして、高松空襲は最初の空爆から30分から40分の間に中心地全域に戦火が広がった事を考えれば、第一派の攻撃の時間もそれほど経過していない事が考えられる。
また、高松空襲被災者が西宝山、紫雲山説と瓦町駅説を唱えると言う事は、2つの地点の空爆時間にそれほどの差がないから、どちらが先に空爆されたのか混乱するのだと言う事が言える。
まとめると、高松空襲では、高松市内の西側からB29が侵入して、空爆を行い、中心地南よりの瓦町駅付近を通過して、北東に抜けて、第一派が空爆を行い、中心地の回りを空爆する事によって、市民の逃げ道を奪い、その後、市内全域に空爆を行ったと言う事である。
最初に中心地の回りを爆撃し、人の逃げ道を奪った事は、高松空襲の特徴の1つである人的被害の大きさに繋がっていると考える事ができる。
高松空襲の爆撃の流れを検証してみて、米軍の最大の目的は市民を殺す事にあると思われる。なぜなら、わざわざ、最初に人があまり住んでいない、場所を空爆して逃げ道をなくしてしまうという行為、もし、建物を焼く事が目的なら、直接、建物を爆撃するはずである。また、高松にはそれほど重要な軍事的な拠点がない。軍事的な拠点の無い場所への空爆とは、市民や住居を狙う、きわめて、残忍な行為だと考える事ができる。
高松において数少ない軍事的なものと考えられるのが、林町の飛行場である。林町は高松市の中心から南東に進んだ所にある町である。林町の飛行場は第2次大戦時に市民の協力のもとに作られた本土決戦ようの飛行場である。当時、林町の飛行場には戦闘機が配備されていた。
しかし、高松空襲の時にこの林町の飛行場はほとんど空襲を受けていない。本来戦争というものじたいやっては行けない行為ではあるが、もし、戦争というものを行ってしまった場合であっても軍事的な拠点を攻撃するべきである。軍事的な拠点を攻撃せずに、人や戦争とは関係のない建物を爆撃しいる。高松空襲の米軍の目的は、軍事的な目的ではなく、人と生活する建物にダメージを与える事にあったと考える事ができる。
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