第一資料に基づいて、アメリカ軍による高松空襲を独自の研究でレポートします。
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(高松空襲写真集より)
本土空襲の全貌を明らかにしていく 第1章
第1節 全国と中国、四国地方の空襲
まず、初めに全国的な本土空襲の動向を考察していく。そして、中国四国地方を研究して、最終的には高松まで限定して本土空襲を研究する。
全国的な流れから、地域の空襲を研究する事によって米軍による本土空襲の全貌を明らかにしていく。
最初に、全国的な空襲の動向を考察してみる。
全国の空襲についての動向を考察するにあたって、「日本の空襲―十補巻、資料編」の149貢~166貢を参照する。なぜなら空襲の日時などは資料によって違いがあり、また、「日本の空襲―全巻」であっても、巻やページによっても空襲の日時などがあいまいであるために、統一することした。
最初の空襲は昭和17年4月18日である。
空襲が本格的になるのが、昭和19年の6月以降である。
初期は九州を中心として空爆が行われる。九州が中心の原因としては、発信基地が成都なので飛行距離のためと考える事ができる。
昭和19年の11月以降になると、東京を中心とした日本の主要都市が空襲の対象となってくる。11月以降では発信基地の多くが成都からマリアナに変わっているので、日本全土が空襲可能地域になったと考える事ができる。高松空襲もこのマリアナ基地から発進したB29によっての空爆である。
そして、11月以降の初期での空襲は名古屋や東京などの軍事工場が主に狙われた。
その後、昭和20年の3月10日に東京大空襲が行われる。この東京大空襲を境として米軍の空襲の性格が大きく変わってくる。東京大空襲以前の空爆は昼間に高度から空爆を行う。そして、東京大空襲の特徴は、焼夷弾を中心として夜間低空飛行で絨緞爆撃が行われた事である。つまり、空爆を行う時間が昼間から夜に変わり、そして、空爆を行う位置が高度から低空へと変わった事である。東京大空襲の目的は絨緞爆撃によって広範囲に市街地を含んで破壊することにある。
また、高松空襲の特徴も、この東京大空襲の特徴の、焼夷弾、夜間低空飛行、絨緞爆撃である。そのため、米軍の目的も東京大空襲と高松空襲はほとんど同じと考える事ができる。
また、初期の段階が軍事関係の施設を狙い、その後、市街地をターゲットにする空襲の流れは高松近辺の中国、四国地方の空襲にも同じような流れで空襲が行われている。
そして、この東京大空襲があった昭和20年の3月ぐらいになると空襲は中国、四国のような地方の都市にも広がってくる。高松近辺を考察してみると、まず、本格的な空襲は広島県の呉市が昭和20年の3月17日を最初に執拗に空襲を受ける。そして、山口県の下関の関門海峡に3月27日を最初に執拗に機雷が投下される。呉市には軍港があり、初期の段階での空襲の中心は軍艦などの舟を直接爆撃することであった。
その後の5月5日、6月22日の呉市への空爆では、軍の施設を中心に空爆される。時期を同じくして、他地域でも主な例を上げると、山口県の岩国、徳山が5月10日、岡山県の水島に本格的な空襲が6月22日、これらいずれの都市も軍の施設や工場が多く存在する地域である。
そして、6月下旬から主に7月に入ると、空襲は市街地を中心としたものになる。主な例を上げると、6月29日に岡山市、7月1日に呉市街、下関市内、7月4日に高松市内、高知市内、徳島市内、7月26日に松山市内などが空襲される。
中国、四国地方の空襲はだいたい3つの時期に分ける事ができる。第1期は昭和20年3月17日から始まる呉の軍港などを狙った、直接日本軍隊を潰す事を目的とした空襲である。そして、5月5日以降の呉や水島などの軍事施設や工場を主にターゲットとして潰した第2期、そして、6月下旬以降の市街地をターゲットとした第3期の空襲である。高松空襲はこの第3期の空襲にあたる。
すなわち、最初に軍隊を攻撃し、軍施設、工場を壊し、市街地に攻撃を加える。この流れを考えていくと米軍の空爆優先順位や米軍の動向などが分かってくる。
分かった事は、まず、直接軍艦や舟を潰し、防空体制を弱める。そして、軍事施設や工場を潰して、防空体制を破壊すると共に、武器や物資の補給手段を潰して反撃の目を潰していく。最終的に、市街地に空爆をする事によって、市街地を破壊し、人を含んだ生き物を殺して、戦意喪失、または、降伏への手段とする。
アメリカにとって、高松と言う戦場は、日本の戦意喪失、日本を焼き尽くす、日本の降伏などを目的とした数多い作戦の1つの戦場だったと言う事である。
(高松空襲写真集より引用)
本土空襲・資料の説明と研究方針・太平洋戦争編
大東亜戦争末期には米軍による本土空襲が本格化する。曖昧な部分が多い本土空襲の真実を出来る限り解明していこうと考えている、空襲については出来る限り第一資料に基づいてレポートしていきたい。
本土空襲の全国的な動向については、基本的に一部例外はあるが
「日本の空襲―十補巻、資料編」
の149貢~166貢を参照する。なぜなら空襲の日時などは資料によって違いがあり、また、
「日本の空襲―全巻」
であっても、巻やページによっても空襲の日時などがあいまいであるために、統一することした。
戦時中の資料は、資料によって違うものが多い。戦時下という状況では正確な情報を入手する事が困難だったと予想ができる。
空襲の様子については、空襲体験者の日記を中心に考察していく。
実際この時代、日本に住んでいた人達の生の声を研究に取り入れていきたいと考えている。個人が書くことなので、同じ事柄についての記述であっても、違いが生じてくる。そういう時は、何人ものデータサンプルを取って、統計的に研究を進めて、できるかぎり、実態に近い様子を解明できればと考えている。
歴史語句
大東亜戦争・1941年12月8日~1945年のポツダム宣言受諾までの日本とアメリカを中心とする連合国軍の戦い。東、東南アジア一帯を欧米列強の支配から開放するための戦いと位置づける。戦中は大東亜戦争が一般的な名称であった。
太平洋戦争・1941年12月8日~1945年のポツダム宣言受諾までの日本とアメリカを中心とする連合国軍の戦い。戦後、アメリカ側からの戦後教育で定着した語句。現在では太平洋戦争の名称が一般化している。
本土空襲・米軍のB29爆撃機による日本本土への空襲。主要都市のほとんどが壊滅的に破壊された。
本土空襲を研究・参考文献について
本土空襲を研究する上で使用した参考文献を紹介する。
出来る限り、文章の中に参考文献を挙げる。これから書
く論文は以下の参考文献を参照して制作していることを最
初に記述しておく。
また、今後の研究で、参考文献の記述は増えていく予定
である。
参考文献
・これが「帝国日本」の戦争だ(2015年11月30日発行、和賀正樹、現代書館)
・高松空襲を記録する会(高松の空襲―手記編)(高松空襲を記録する会、一九七三七月四日)
・高松空襲を記録する会(高松の空襲―手記、資料編)(高松空襲を記録する会、一九七八年七月四日)
・高松市史編修室(高松市史年表)(高松市役所、昭和三十五年二月十五日)
・日本の空襲編集委員会「日本の空襲―七 中国・四国」(三省堂、二〇〇三年五月一〇日)
・日本の空襲編集委員会「日本の空襲―三東京」(三省堂、一九八〇年四月二〇日)
・日本の空襲編集委員会「日本の空襲―補巻 資料編」(三省堂、一九八一年十月二〇日)
・高松空襲戦災誌編集室「高松空襲戦災誌」(高松市役所、昭和五八年三月三一日)
・総理府統計局「昭和一九年人口調査集計結果摘要」(総理府統計局、昭和五二年三月)
・松山史史編集委員会「松山市史―第三巻」(松山市役所、平成七年五月一日)
・早乙女勝元、土岐島雄「母と子でみる 日本の空襲」(草の根出版会、1988年3月7日)
・(私の十五年戦争―「平和を祈る夕べ」証言)
http//www.skk.org/tokyo/data/9511sengo/0022.htm
・小山仁示「米軍資料日本空襲の全容マリアナ基地B29部隊」(東方出版、1995年四月二十五日)
・高松市文化センター平和記念室「高松空襲写真集」(高松市文化センター平和記念室、二〇〇五年七月四日)
・香川日々新聞
・高松市総務部情報システム課
(http://www.city.takamatsukagawa.jp/2514.html)
・高松商工会議所「高松住宅明細地図」(高松商工会議所、昭和八年十月一五日)
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