第一資料に基づいて、アメリカ軍による高松空襲を独自の研究でレポートします。
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
全国の空襲死亡数と死亡率から分かる事(資料・空襲された147都市)
第2節
ここでは、空襲された147都市の人口、死者数、死亡率から分かる事を説明していく。以下の文章の順位に関しては、空襲された147都市の中での順位を示している。
太平洋戦争末期になると、日本全土で米軍による空襲が始まる。戦時中の混乱期のために正確な情報を手に入れるのは難しく不明な点も多く、また、確認されずに、資料として残っていない被害も数多く存在する。「日本の空襲―補巻 資料編」では147の都市が空爆されたとされている。全国の主要都市のほとんどが空爆の被害にあっている事が分かる。大都市なのだが、石川県の金沢市は空爆の被害を受けていない。金沢に関しては、なぜ米軍に空爆をされなかったのか、例えば、原子爆弾投下の候補地として、町をそのままの状態で残しておきたかったなどの様々な説がある。しかし、もし、戦争が長引いていれば、間違いなく、空爆の対象都市となっていたと予想できる。根拠としても金沢市は米軍資料の空襲すべき日本の180都市に含まれているからである。
各都市の空襲被災日を考えていくと、東京や大阪、名古屋、横浜、京都、神戸などの日本を代表する最重要な都市が比較的早い時期から空襲を受け、そして、地方の都市にその被害が広がっている事で予想がつく。米軍は日本を焼き尽くす事が目的と言う事である。
空爆の被害を受けたとされる、全国147の都市の人口を「昭和19年の総理府統計局発行の人口調査」で見てみると、1位は東京で、後は、大坂、名古屋、横浜、京都とつづく。そして、高松は40位で107202人であった。
次ぎに「日本の空襲―補巻 資料編」から147の空爆被害都市の死亡者総数の数は、1位が広島で後は、東京、長崎、大阪とつづく。高松は20位で、1313人である。
次ぎに、人口に占める死亡者の割合という事で、死亡数に人口数を割った死亡率を考えてみると、1位は広島で後は、長崎、太田とつづく。また、高松は23位で、1を全人口とすると、0.012であった。これは、100人のうち1.2人の割合で人が死んでいると言う事である。
以上の事柄を踏まえると、長崎や広島の被害の大きさが目立つ。原子爆弾による被害は人間が逃げる余地のない凄まじいものである。死亡率に関して言えば、3位以下の都市と比べて、桁が1つ違っている。まったく次元の違った爆弾の威力である。このあたりの被害の大きさが全国的に広島の原爆が平和教育の教材として使われる理由と考える事ができる。
そして、高松は全国的に見て中クラスの都市と言える。
その他、高松の空襲は死者1313人もの数が出ているので全国的に見ても大きな空襲であった事が分かる。
また、高松は人口が40位なのに、死者の数は20位で、全国的に見て高松は人口のわりに死者の数が多いと言える。
そして、死亡率は147都市の中で23位と上位に位置している。ここから、高松の空襲はなんらかの原因で死者の数が多くなったと考える事ができる。
その答えを解き明かしていくのは次回に回すことにする。
(高松空襲写真集より)
本土空襲の全貌を明らかにしていく 第1章
第1節 全国と中国、四国地方の空襲
まず、初めに全国的な本土空襲の動向を考察していく。そして、中国四国地方を研究して、最終的には高松まで限定して本土空襲を研究する。
全国的な流れから、地域の空襲を研究する事によって米軍による本土空襲の全貌を明らかにしていく。
最初に、全国的な空襲の動向を考察してみる。
全国の空襲についての動向を考察するにあたって、「日本の空襲―十補巻、資料編」の149貢~166貢を参照する。なぜなら空襲の日時などは資料によって違いがあり、また、「日本の空襲―全巻」であっても、巻やページによっても空襲の日時などがあいまいであるために、統一することした。
最初の空襲は昭和17年4月18日である。
空襲が本格的になるのが、昭和19年の6月以降である。
初期は九州を中心として空爆が行われる。九州が中心の原因としては、発信基地が成都なので飛行距離のためと考える事ができる。
昭和19年の11月以降になると、東京を中心とした日本の主要都市が空襲の対象となってくる。11月以降では発信基地の多くが成都からマリアナに変わっているので、日本全土が空襲可能地域になったと考える事ができる。高松空襲もこのマリアナ基地から発進したB29によっての空爆である。
そして、11月以降の初期での空襲は名古屋や東京などの軍事工場が主に狙われた。
その後、昭和20年の3月10日に東京大空襲が行われる。この東京大空襲を境として米軍の空襲の性格が大きく変わってくる。東京大空襲以前の空爆は昼間に高度から空爆を行う。そして、東京大空襲の特徴は、焼夷弾を中心として夜間低空飛行で絨緞爆撃が行われた事である。つまり、空爆を行う時間が昼間から夜に変わり、そして、空爆を行う位置が高度から低空へと変わった事である。東京大空襲の目的は絨緞爆撃によって広範囲に市街地を含んで破壊することにある。
また、高松空襲の特徴も、この東京大空襲の特徴の、焼夷弾、夜間低空飛行、絨緞爆撃である。そのため、米軍の目的も東京大空襲と高松空襲はほとんど同じと考える事ができる。
また、初期の段階が軍事関係の施設を狙い、その後、市街地をターゲットにする空襲の流れは高松近辺の中国、四国地方の空襲にも同じような流れで空襲が行われている。
そして、この東京大空襲があった昭和20年の3月ぐらいになると空襲は中国、四国のような地方の都市にも広がってくる。高松近辺を考察してみると、まず、本格的な空襲は広島県の呉市が昭和20年の3月17日を最初に執拗に空襲を受ける。そして、山口県の下関の関門海峡に3月27日を最初に執拗に機雷が投下される。呉市には軍港があり、初期の段階での空襲の中心は軍艦などの舟を直接爆撃することであった。
その後の5月5日、6月22日の呉市への空爆では、軍の施設を中心に空爆される。時期を同じくして、他地域でも主な例を上げると、山口県の岩国、徳山が5月10日、岡山県の水島に本格的な空襲が6月22日、これらいずれの都市も軍の施設や工場が多く存在する地域である。
そして、6月下旬から主に7月に入ると、空襲は市街地を中心としたものになる。主な例を上げると、6月29日に岡山市、7月1日に呉市街、下関市内、7月4日に高松市内、高知市内、徳島市内、7月26日に松山市内などが空襲される。
中国、四国地方の空襲はだいたい3つの時期に分ける事ができる。第1期は昭和20年3月17日から始まる呉の軍港などを狙った、直接日本軍隊を潰す事を目的とした空襲である。そして、5月5日以降の呉や水島などの軍事施設や工場を主にターゲットとして潰した第2期、そして、6月下旬以降の市街地をターゲットとした第3期の空襲である。高松空襲はこの第3期の空襲にあたる。
すなわち、最初に軍隊を攻撃し、軍施設、工場を壊し、市街地に攻撃を加える。この流れを考えていくと米軍の空爆優先順位や米軍の動向などが分かってくる。
分かった事は、まず、直接軍艦や舟を潰し、防空体制を弱める。そして、軍事施設や工場を潰して、防空体制を破壊すると共に、武器や物資の補給手段を潰して反撃の目を潰していく。最終的に、市街地に空爆をする事によって、市街地を破壊し、人を含んだ生き物を殺して、戦意喪失、または、降伏への手段とする。
アメリカにとって、高松と言う戦場は、日本の戦意喪失、日本を焼き尽くす、日本の降伏などを目的とした数多い作戦の1つの戦場だったと言う事である。
サイトを維持、充実させる為にご協力をお願いします。
記事を購読お願いします。
記事を読まれた方はクリック
サイトを運営する活力になります。