第一資料に基づいて、アメリカ軍による高松空襲を独自の研究でレポートします。
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高松の人口の推移
次ぎに高松市の人口は空襲前の昭和19年が107202である。そして、空襲後の昭和20年の人口が72656である。空襲後に人口が大幅に減った原因として、空襲による死、建物、住居の破壊で住む場所や生活の場所を失った人達が高松を離れてしまったと考えられる。数字だけ見ても空襲の被害の大きさや高松市民の生活の影響に与えた大きさなどが分かる。
そして、現在高松市の人口は大幅に増えている。
平成16年12月のデータでは人口が約34万9000人である。平成27年では約41万9000人となっている。
実に空襲前の約4倍、空襲直後の約5倍の人口である。だが、高松市は戦後から現在までに合併を繰り返して市自体が巨大化しているので、正確に戦後直後と現在とを比べるのは難しい。しかし、人口だけのデータを見てみても復興が成功していると感じる。
新聞記事から見た高松の復興
高松空襲後の新聞で町の復興にかんする記事をまとめてみた。保存状態の関係で見出しの文字以外を解読する事は難しいという情況ではある。しかし、見出しと消えていない文字のみを拾い上げる事によってある程度の内容は分かってくる。
「(・日々新聞12月20日号)飛行機が住宅に高松復興用の組立式―終戦後豊富な手持資材を高松市の戦災復興住宅用に」
「(・日々新聞12月4日号)麦畑になる飛行場―終戦で再び農地にもどされる軍飛行場、練兵場、軍用道路などを」
「(・日々新聞12月28日号)なんとかならぬか住宅復興を阻む戦災土地物件令」
「(・日々新聞12月号)再起の道はここから時には慰問もある戦災者収容所」
以上の事柄で分かる事は、林町にあった軍の飛行場が戦後取り壊されて、農地として使われたということである。また、軍用機に使われていた部品が復興のための住宅の部品に再利用された事である。すなわち、終戦により必要でなくなった軍関係の物が高松復興のために使われたと言う事である。
そして、戦災によって、家を失い住む場所がなくなった人達は、高松市が用意した収容所で生活をしていたことが分かる。また、戦災者が住む家に関する事は問題もあったようだ。その1つの例が戦災土地物件令である。これは、借家が戦災で焼けた場合、住居人がまた空襲前のように同じ場所で住む場合、8月11日から2ヶ月以内に、地主に伝えておかないといけない。また、2ヶ月を過ぎると契約は解除された事になる法律である。
(現在の高松市)
第4章高松市の復興について
第1節終戦後の都市計画と現在の高松市
ここでは、市長と助役が考えた都市計画について考察して、現在の高松市が高松空襲後の都市計画に基づいて復興しているかを考察していく。また、新聞から復興の様子を考察してみる。
以下に記述しているのが、高松市の復興に関する助役と市長が考えた都市計画である。
・大西林次(助役)南亀井町 市長は今後吾の高松市の生きる道は思い切った立派な都市計画を樹つるに在るとして、私と協議の上、その結論として、市内の路面電車は絶対止めて、東西南北に真直なる道巾を布き、商店街、住宅街、学園、ならびに工場地帯と大別し、幹線は50メートル以上の道巾とすることなであった。
大西氏は市の助役であり、市長と共に高松市の復興について協議したようである。この中にでてくる事柄は現在の高松市の風景そのものである。
現在の高松市の中心地の様子は国道11号とよばれる大きな道路を中心として道路が碁盤の目のようになっている。そして、大きな商店街と区画整理された町並みである。幹線50メートル以上の道幅と言うのが現在の国道11号線をさしている。
大きな商店街を中心に碁盤の目のように道路が敷かれた町が現在の高松市の姿である。このように、大西氏と市長が考えた復興計画がそのままの形で実行されて、成功している事がわかる。
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