第一資料に基づいて、アメリカ軍による高松空襲を独自の研究でレポートします。
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高松空襲授業実践(日本史AB)
授業をする上での要点をまとめました。
第二次世界大戦の単元で、1コマ時間を使う。
高松空襲の概要
○ 人口と死者数
1945年の高松市人口約10万人以上・死者約1313人
○ 日時
1945年7月4日午前1時過ぎから2時ぐらいの間~5時ごろ、夜明けぐらい
11時過ぎから石油をまいていた。
○ B29出撃数
出撃数128、爆撃を行った数116 86機目視、低空飛行
30機レーダー 上空
○ 最初の空襲
最初の空爆は意見が分かれるが、紫雲山のふもと、そこから南に向かい、屋島に抜けていった。→市街地の周りから空襲を行っている。
○ 空襲の特徴
人口のわりに死者が多い。→疎開に消極的だから
疎開に積極的な都市もある。→松山死者251人
○ 疎開をあまりできなかった理由
・ バケツリレーにて被害を最小限に抑える役目を課せられていた。→疎開はできにくい。
→周りの地方都市が空襲されていく中で、そろそろ、高松にも空襲が来る事はある程度予想されている。
・ 空襲を取り仕切っている人間が疎開に否定的
・
○ 空襲時の行動
・ 火消しを行わずに避難する場合が多い
○ 避難場所
防空壕に避難→しかし、死んだケースが多い。煙や蒸し焼き、直撃など、防空壕が死因になるケースが多い
・西に逃げる。風上に避難、水に逃げる。
○ 本校と髙松空襲
本校は髙松空襲で校舎が全壊、生徒、教職員にも多数の死者がでた。香川県明善学園五十年史に空襲時の本校の様子が記録されている。
●国際法と高松空襲
国際法と照らし合わせて、学校、病院、住宅など市街地を攻撃する事が国際法に違反していることを学習する。(ハーグ陸戦条約)
○主な参考資料
・高松の空襲―手記編 ・高松の空襲―手記、資料編
・高松空襲戦災誌 ・松山市史―第三巻 ・日本の空襲
・米軍資料日本空襲の全容マリアナ基地B29部隊
・高松空襲写真集 ・香川日々新聞 ・高松市史年表
高松空襲とアメリカの戦争犯罪
これまでの、研究でも分かるように高松空襲は、無防備な一般市民が住む住宅街を一夜にして破壊しつくした空襲である。
戦争と言えども、一般市民が生活する空間を破壊して良いのか悪いのかが焦点となる。
答えは、一般市民や一般市民が住む建物を攻撃してはいけない。
戦争時に一般市民を攻撃の対象にしてはいけない根拠を1つ示したい。
ハーグ陸戦条約
1899年にオランダのハーグで開かれた第1回万国平和会議において採択された戦争に関する条約である。内容は戦時でも各国が守るべき事があり、主に捕虜の虐待や非戦闘民、防衛していない市街地の攻撃を禁止する事を定めた国際法である。
この条約にアメリカは批准している。
(ハーグ陸戦条約第25条)
Art.25 The attack or bombardment,by whatever means,of towns,villages,dwellings,or buildings which are undefended is prohibited.
ハーグ陸戦条約第25条・日本語現代語訳
無防備な町、村、住宅に対して、どのような手段による攻撃も禁止する。
この第25条1つとっても、アメリカの国際法違反は明確である。市街地を襲った髙松空襲は無防備な町、村、住宅、住民に対して行った攻撃である事はこれまでの研究で実証されている。
アメリカの行いは国際法に違反した戦争犯罪だと言える。
アメリカは第二次世界大戦において、戦争犯罪を犯している。この紛れもない事実は公言すべきだと思う。
本土空襲や広島や長崎への原子爆弾投下を正当化する人達がいる。それが日本人の中にもいる事が残念でならない。どの様な理由があろうが、一般市民をターゲットにした攻撃は許されるものではなく、正当化されるものでもない。
高松空襲と平和学習
今回の研究によって、高松空襲の空襲前、空襲中、復興がある程度解明された。空襲前から復興については、これまでの先行研究とは違った視点で解き明かす事ができた。すなわち、先行研究が議会の議事録や行政の記録、学校記録などから、高松空襲を語っているのにたいして、今回の研究は被災者の体験談を主にして、違った視点で研究したことである。そして、不明な部分が多いために先行研究でもあまり明かにされなかった空襲中の事がより詳しく解明された。
これまで、高松空襲の事を調べていて、高松空襲は香川県の平和教育の教材として使える事は分かった。被害の大きさや行政の対応、防空体制、市民の使命、米軍の空爆方法など生徒に戦争の悲惨さを訴えかける要素は、高松空襲の中には沢山ある。すなわち、戦争の悲惨さを伝えるには充分な教材となる。
香川県ではこれほどまでに、平和教育に適した教材がありながら、なぜ、これまで、高松空襲が平和教育の教材として使われる事があまりなかったのかを考えてみた。日本史や世界史の流れでいくと、高松は太平洋戦争の極地戦の1つにしか過ぎない。日本史や世界史の流れを左右するような戦いではなく、中国四国地方での1945年の6月下旬から始まる、多数の市街地への空爆の1つの戦いでしかない。
しかし、広島や長崎、沖縄などは、歴史の流れや戦争全体の戦局に影響した戦場である。沖縄の戦いは西日本への空爆に影響を与えた事や日本での地上戦、戦後の沖縄問題、など重要な要因を多く含んでいる。
そして、広島や長崎は戦争の歴史と言う問題だけではなく、放射能の問題や地球のエネルギー問題にまで、関係する重大な事である。平和教育以外にも関連している、広島、長崎の問題は学校教育では絶対に外す事のできない重大な問題である事も再認識できた。これからも、広島や長崎の事は学校教育でも徹底的に勉強する必要性がある。
今回認識した事は、香川県の平和教育が広島にだけ頼っていた事である。広島にだけ頼っている平和教育をどうにか変えるべきであると認識できた。しかし、広島の事は重要なので、これまで通り、香川県の平和教育も広島を中心に扱うべきである。だが、私は香川県で平和教育を行う時は高松空襲を教材に使う。
そして、平和教育の趣旨は戦争の悲惨さを知り、2度と同じ過ちを繰り返す事がないようにする事である。自分が住む地域が、かつては、悲惨な戦場であった事を知れば、平和教育の趣旨を生徒に訴えかける事ができる。そして、今回の研究によって、香川県では高松空襲を知る事によって、戦争の悲惨さを伝える事ができると私は確信した。
高松の人口の推移
次ぎに高松市の人口は空襲前の昭和19年が107202である。そして、空襲後の昭和20年の人口が72656である。空襲後に人口が大幅に減った原因として、空襲による死、建物、住居の破壊で住む場所や生活の場所を失った人達が高松を離れてしまったと考えられる。数字だけ見ても空襲の被害の大きさや高松市民の生活の影響に与えた大きさなどが分かる。
そして、現在高松市の人口は大幅に増えている。
平成16年12月のデータでは人口が約34万9000人である。平成27年では約41万9000人となっている。
実に空襲前の約4倍、空襲直後の約5倍の人口である。だが、高松市は戦後から現在までに合併を繰り返して市自体が巨大化しているので、正確に戦後直後と現在とを比べるのは難しい。しかし、人口だけのデータを見てみても復興が成功していると感じる。
新聞記事から見た高松の復興
高松空襲後の新聞で町の復興にかんする記事をまとめてみた。保存状態の関係で見出しの文字以外を解読する事は難しいという情況ではある。しかし、見出しと消えていない文字のみを拾い上げる事によってある程度の内容は分かってくる。
「(・日々新聞12月20日号)飛行機が住宅に高松復興用の組立式―終戦後豊富な手持資材を高松市の戦災復興住宅用に」
「(・日々新聞12月4日号)麦畑になる飛行場―終戦で再び農地にもどされる軍飛行場、練兵場、軍用道路などを」
「(・日々新聞12月28日号)なんとかならぬか住宅復興を阻む戦災土地物件令」
「(・日々新聞12月号)再起の道はここから時には慰問もある戦災者収容所」
以上の事柄で分かる事は、林町にあった軍の飛行場が戦後取り壊されて、農地として使われたということである。また、軍用機に使われていた部品が復興のための住宅の部品に再利用された事である。すなわち、終戦により必要でなくなった軍関係の物が高松復興のために使われたと言う事である。
そして、戦災によって、家を失い住む場所がなくなった人達は、高松市が用意した収容所で生活をしていたことが分かる。また、戦災者が住む家に関する事は問題もあったようだ。その1つの例が戦災土地物件令である。これは、借家が戦災で焼けた場合、住居人がまた空襲前のように同じ場所で住む場合、8月11日から2ヶ月以内に、地主に伝えておかないといけない。また、2ヶ月を過ぎると契約は解除された事になる法律である。
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